すべて必要で大切なプロセス(つぶやき考現学 No.4)
2021/09/10
一昨日、中村教室のFacebookページに、教室が始まる15:00のタイミングで、
次のような詞(つぶやき考現学)を投稿しました。
まずはそれをご紹介。
【井上淳之典のつぶやき考現学・4】
何かがおかしい、このままではいけないと、
問題に気づくのが第1段階。
原因は何なのか、だれの責任なのだろうと、
問題を作っている敵を探すのが第2段階。
原因を無くそう、悪いヤツは倒さなければと、
その敵と懸命に闘おうとするのが第3段階。
たとえ敵に勝ち、敵を倒しても空しいだけで、
闘っても敵はなくならないと気づくのが第4段階。
問題を作っている敵は外側にいるのではなく、
自分の中にいることに気づくのが第5段階。
自分の中にいる敵は、自分がつくったもので、
そもそも敵などなかったと気づくのが第6段階。
高い段階に到達することが目的でなく、
一つひとつの段階はすべて必要なもので、
そのプロセスこそ大事と気づくのが第7段階。(1998.3.11)
COMMENT:今日は、わたしがなぜこういう詞の形の
つぶやきを書くようになったかという経緯について、
書き連ねてみようとおもいます。
たとえば、blogに昨日の
「変化の早い人と遅い人の違いは?」のような記事を
投稿したときに、いつもおもうことがあって。
あれだけ文字数があって長い文章だと、
それだけで拒否反応というか、
読む気が失せるという人が、
きっといらっしゃるだろうなということです。
ふだんから教室にやってきている
塾生とわたしとの対話ですから、
2人の間だけであれば、敢えて言葉を交わさなくても
互いに共有できている背景などもあり、
実際のやりとりは、もっと短く済んでいました。
でも、この記事を読まれる人には当然それがなく、
そうしたこともわかるように丁寧に書こうとすることで、
どうしても言葉が増え、長くなってしまうんですね。
でも、仮に、書かれている内容が
読まれた人にちゃんと伝わったとしても、
それが実践されるかどうかは読む人自身の問題です。
まして、読んだ人に
何らかの変化をもたらすかどうかはわかりません。
つまり、頭でわかるかどうかということと、
それが行動に移されるかどうかは別の問題だからです。
よって、なるべく言葉を切り詰め、
途中のプロセスなども省略し、
エッセンスの部分のみをよりコンパクトに、
わたし自身の気づきとしてひとりごとのように
つぶやく形式の〝詞〟を書くということも、
この教室を始めた当初から続けていることです。
言葉が少なすぎれば、読む人にとっては
当然わかりにくい部分も生まれてくるわけですが、
しかし、わかりやすい言葉ばかりを連ね
読んだ人を〝わかった〟気分にさせてしまうよりは、
〝わからないこと〟が適度にあった方が、
そのわからないことに対して、
相手から〝問い〟という
アクションを引き出す可能性もあります。
一昨年2019年は、寺子屋塾を始めて25年、
わたし個人にとっては60歳還暦という、
二重の節目にあたる年でした。
そんなことから、この25年間に
詞の形式で書きためてきたものを
整理する作業をすすめていたんですが、
全部数えると100余あることがわかり、
その各々に番号を振り、
Facebookに
毎日一つずつ投稿していくことを始めたのでした。
twitterの場合には、bot(ボット)という,
同じ記事を同じ時間間隔で、
繰り返し投稿しているアカウントがあるんですが、
Facebookの場合も、投稿した記事が
次から次へと流れていく点ではtwitterと同じで、
投稿記事のすべてを、自分とつながっている人全員で
リアルタイムに読まれているわけではなく、
たまたま、タイムラインを覗いていた人や、
たまたま、アカウントにアクセスした人に
読まれているだけなので、
同じ記事を時間をおいて何度繰り返し投稿しても、
まったく問題がないようにおもうからです。
昨日書いた内容を読み直してみて、
また、現在なお世界規模で進行中のコロナ禍を
わたしがどう見ているのかということも、
結局短く煎じつめていうと、
この詞で書いている言葉に
集約できるんじゃないかとおもえたので、
23年前に書いた詞をご紹介することで、
本日9/10分の記事としようとおもった次第です。
・・・って、結局また
今日も長くなってしまいました。(^^;)
ここまで読んで下さりありがとうございます。<(_ _)>