起業物語「自分をデザインできる場づくり」
2021/09/23
現在のわたしが主たる拠点としている寺子屋塾 中村教室は、名古屋市中村区本陣の地域資源長屋なかむらの3Fにあります。その2FにあるNPO法人・起業支援ネットから取材を受け、2017年の暮れ12/1に発行された会報誌のaile(エール)101号「起業物語」のコーナーに掲載いただいたことがありました。
本日の寺子屋blogはその内容をご紹介。
わたしの場合、起業してからとなると24年という年月が経過していますので、起業物語というよりは、今日までの紆余曲折、試行錯誤のプロセス全体を含めた内容になっています。「教えない教育」というキャッチフレーズや「セルフデザインスクール」というコンセプトなど、わたしの仕事はいわゆるオーソドックスな教育スタイルとはかなり異なり、けっして分かりやすいものとは言えませんし、記事としてまとめるのはとっても大変だったとおもうんですが、今の時代になぜこういうことをやっているのか、何を大事にしているのかが垣間見える記事に仕上がっています。ライターの石黒好美さんには、本当にご苦労をおかけしました。<(_ _)>
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起業物語「自分をデザインできる場づくり」寺子屋塾
数年前、初めて井上淳之典さんの主宰する「寺子屋塾」の教室を訪れた時の驚きを今も覚えている。
やって来る塾生たちの年齢はさまざま。小中学生もいれば、大人もいる。淳之典さんは教室でコーヒーを淹れながら、生徒たちとニコニコと談笑している。学習塾だというのに授業はないのだ。それなのに、塾生は黙々と算数の問題を解き始めたり、塾生どうしで「インタビューゲームをしようよ」と声を掛け合ったりして、誰に指示されたわけでもないのに、ひとりひとりが進んで勉強を始めている。
『教えない教育』。淳之典さんの寺子屋塾を語る時に必ずキーワードとなる言葉だ。教育なのに、教えない。「寺子屋塾」で使用している『らくだメソッド』は、毎日算数や国語のプリントに取り組み、かかった時間とミスの数を記録する。しかし、とうに学校を卒業した社会人までもが小学生と同じ算数プリントに取り組むというのは、どういうことなのだろうか。
「計算や読み書きの力といった基礎学力を身につけてほしいということもありますが、もっと大切にしたいのは『学び方』や『学ぶプロセス』です。
自分でこれだけのプリントをやる、と決めて実践する、能動的に学ぶ姿勢と、決めたことができなくても、できない自分を認めて受け入れる力をつけることが大切なんです」。
なるほど、と思わされるのと同時に、どこかつかみどころがないようにも感じる。教育だけれど、教えない。学ぶ内容よりも、学ぶ方法を重視する。淳之典さんはどうして、どのようにしてこうした実践にたどりついたのだろう。
職を転々とした20代
淳之典さんは人生最初の転機は高校時代だったとふりかえる。子どもの頃から音楽が大好きだった。高校1年生の時、初めてピアノを買ってもらった。「うれしくてうれしくて、毎日1時間は弾いていました」。でも、音楽で食べていきたいと考えるも、プロを目指すにはスタートが遅かった。
ならばピアノの技術者を目指そうと楽器店でアルバイトを始め、夜は調律や修理を学ぶ専門学校に通った。しかし、この生活も長くは続かない。実は淳之典さんは16歳の時に自然気胸という病気にかかり、ひと月以上も学校を休んで療養。その後も再発を繰り返したことがネックとなり、音楽の道は3年ほどで諦めざるを得なくなった。
「特にやりたいこともなかったので」淳之典さんは誘われるまま、コンピュータのプログラマーや経営研究所のアシスタントなど、20代前半は職を転々とした。「やりたいことはなかったけれど、いつも『これは自分の一生の仕事ではないなあ』という感覚はありました」。
教育の仕事との出会い
25歳の時、同じように知人に請われ、急に辞めるスタッフの穴を埋めるために、小中学生向けの進学塾の専任講師を務めることに。「私は大学を出ていないし、人に勉強を教えるのも初めてで苦労しました。それでも、今まで1年以上同じ職場にいたことがなかったのに、塾は7年間も続けることができたんです」。
中学や高校受験をゴールに、厳しく生徒を指導する塾だった。子どもの成長にやりがいを感じ、教室長も任された。「でも、7年目に『ここも自分の場所じゃないなあ…』と考えるようになったんです」。自身の中に進学塾のシステムに対する疑問があったわけでも、理想とする教育ビジョンがあったわけでもない。ただ、本当にここが自分の力が生かせる場なのだろうかと漠然とした疑問を拭えなかった。
その時に淳之典さんが手掛かりにしたのが、病気に悩まされた20代前半、「毎日の食べ物を見直す」ことで健康を回復した経験だった。「受験も大切だけれど、学生時代だけでなく、人間の一生を考えた時に本当に必要な学習とは何か。日常のあたりまえの生活を見直す中にヒントがあるのではと考えたのです」。
自ら学ぶ力をつけるために
進学塾を辞めた淳之典さんは名古屋を離れ、東京にある自然食普及団体の研修生に。食と身体のつながりについて学びながら『教えない教育』を実践している人たちと出会ったのはこの時だ。
「進学塾で多くの子どもたちを教える中で気付いたことがあります。親に言われたとか、友達が通っているからという理由ではなく『自らの意思で入塾を決めた生徒』は、飛躍的に成績が伸びるのです」。学ぶ内容は同じでも、やらされている子と自ら学習する子では成果が違う。どうしたら進んで学ぶ子が育つのだろう、という問いを考えるなかで『教えない教育』は、自分が目指すところかもしれないと感じた。「教えることで周りが無理に学力を引き上げるのではなく、自ら学ぶ力をつけられる場をつくる。私自身が進む方向性が、東京にいた2年の間におぼろげに見えてきました」。
塾生の姿を映し出す鏡に
淳之典さんは結婚を機に東京から戻り、自宅の一室から寺子屋塾を始めた。寺子屋塾では授業もなければ宿題も出さない。生徒が自分で決めた枚数分のプリントを持ち帰る。日ごとにどのプリントに取り組んだかを記録表に書きこむ。「先生が評価しなくても、記録表を見れば学習したプロセスが一目瞭然。わからないことを問う姿勢を大切にすれば『勉強ができない人』はいないんです」。
テストで競わせたり、褒めたり叱ったりという外からの働きかけでなく、自分についての事実情報を蓄積して可視化し、自分はどうしたいかを考えられる機会をつくることこそ、成長の原動力になると淳之典さんは語る。「とはいえ、実は『自分が本当はどうしたいか』をひとりだけで考えるのは難しい。本人の内発的動機を尊重しつつも、寺子屋塾では私が塾生の『鏡』となって自分で自分が見えるように関わっています」。
寺子屋塾で大切にしているのは『体験と対話』。自身が決めたことに毎日コツコツと取り組む体験から得られる気づきを積み重ねながら、淳之典さんや塾生どうしの対話を通してありのままの自分を見つめ受け入れていくことだ。寺子屋塾に子どもだけでなく、足繁く通う大人も多いのは、この考え方が共感されているからに他ならないのだろう。
ままならない現実と向き合う
しかし、淳之典さんは寺子屋塾を続けてきた20数年間を振り返ってこう語る。「自分がこうしたいと思っても、体調が不安定でままならない時期が長かった」。
寺子屋塾は入ればすぐ目に見える結果が出る塾ではない。生徒が集まらない時期には、色々な仕事を掛け持ちしたこともあった。そして、2001年に大きく体調を崩し、その後もうつ症状に長く苦しんだ。
しかし「求めている人がいる限り、丁寧に関わろう」と決め、塾生の一人ひとりに向き合い続けた。現在は淳之典さん自身も毎日プリントに取り組んでいる。状況が苦しい時も『体験と対話』を欠かさなかった――というよりも、自分の思い通りにならない状況こそが、淳之典さんを毎日コツコツと積み重ねることに向かわせたのではないだろうか。
「私たちに見えている世界は、一人ひとりの内側の精神世界が外側に投影されたもの。映画にたとえるなら、映像を映し出しているのが他でもない自分自身で、そのことに気づいていない。自分で自分を見ようとしても歪んでしまいがちだし、目を反らそうとしたり苦しみを感じたりするのは、スクリーンの方を変えようとしてしまうから。能を大成した世阿弥が〝離見の見〟って言っているんですが、寺子屋塾でやっていることは、自分を凝視するのでなく、日常的にモニタリングできるしくみづくりなんです」。
「こうあるべき」という規範や常識にとらわれるのではなく、目新しい手段に飛びつくのでもない。うまくいかない原因や解決法を外側に求めるのでなく、自分の内側に見出し、いまできることを淡々と積み重ねていく。淳之典さんが選んだのはそんな方法だ。
寺子屋塾のコンセプトは『セルフデザインスクール』。自分がこうなりたいと願う理想の姿を描くというよりは、アプローチしていく道筋全体をデザインすることだという。いまの自分を周囲との関わりの中で確認しながら、一歩一歩あゆみ続けていく。それはきっと易しくない道のりだ。しかし、ままならない現実とあるがままの自分を自然に受け止められるようになった時、私たちはより豊かに、優しく、自由に生きられる力を身につけられるかもしれない。
〈プロフィール〉
1959年名古屋生まれ。1994年より『らくだメソッド』を取り入れた、対話と体験に基づく自学自習の学びの場、寺子屋塾をスタート。教室経営の傍ら四日市、桑名、いなべ、犬山、名古屋等にてさまざまな地域づくり事業に関わる。NPOや企業、大学等でも研修講師、ファシリテーターを務める。
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