プリント学習の先にあるもの
2021/10/05
今日も寺子屋塾生のblog記事を紹介しながら、それを読んでおもったことを書いてみようとおもいます。
西尾亮さんが一昨年5月の学習をふり返って書かれていたblog記事です。
(引用ここから)
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[5月の振り返り]
5月はらくだをやらない日はなかった。
なぜだか、
「らくだを毎日、続けてやった。」
という表現でなく、
「やらない日はなかった。」
という表現がしっくりくる。
何だろう、
「もう1人の自分が、プリントを行なった。」
という感じだ。
私がプリントをやったというより、
プリントをやったという事が起こった。
というべきか。
何だろうか。自分でもよくわからないのだが、そんな感じだ。
頑張らず、意志にも振り回されず、(雨にも負けず・・・笑)
自然と、
「今日のプリントはこのタイミングだろうなぁ。」
という直感が働くようにもなっている気がする。
※gt-24o’s blog「自分之起」2019.6.3 より
西尾さんは、2017年9月から学習を始められました。大人の人が、過去にすでに学習している算数・数学の学習を毎日続けることで、どんな変化が生じてくるのかについては、その前提として一人ひとり課題が異なり一概に言えないのですが、西尾さんがここに書かれていることは、らくだメソッドで学習が進んでいくと、比較的多くの方が実感されることのように感じています。
らくだメソッドには、1枚1枚にめやす時間が設定されていて、めやす時間台でできミスの数が3個以内という合否ルールが設定されています。それで、最初はほとんどの人が、プリントが「できた」「できなかった」「合格した」「ミスがたくさんあった」という結果に目が行きます。もちろん、それも体験においては大切な要素であることに変わりがないのですが、それはあくまで「月をさす指」にすぎません。
らくだメソッドのシステムは〝セルフラーニング〟といい、「自分を知る学習」と捉えているんですが、そのプロセスにおいては〝観察力〟が何よりも重要です。動物は「月をさす指」を見て月を見ることはできないので、「月をさす指」を見て月を見ることは、人間だけにしかできません。その指を手がかりに月・・つまり自分自身を見て、自分を知っていくことが大事なのです。
でも、具体的に自分を見るやり方については、個別に異なり一人ひとりが自分に合ったやり方を体験的に掴むしか方法がなく、言葉で説明したことを頭で理解することで身につけられることではないため、そのやり方を教えることはできません(→教えない教育)。それで、当塾では、口伝というか個別に対話を重ねることでしか学習は進められないため、そのためにも学習者自身が自ら「問いを立てる」「質問する」姿勢が何よりも重要になってくるわけです。
それで、インタビューゲームをわたしが提供できるプログラムのなかで最も重要なものと位置づけ、定期的に体験出来る場を用意し、中村教室内でのルールもインタビューゲームのルール「何を聞いてもいい」「話したくないことは話さなくて言い」「聞かれていないことでも話していい」と同じにしているのも、学習の場を疑似空間にとどめず、生活や仕事の場でそのまま実践し活かしていけるように、ルールを日常化していくためでもあります。
もちろん、「何を聞いてもいい」とはいうものの、質問するよりも自分で考えた方がいい問いもあります。だいたい皆さん、聞かずに自分で考えた方が良いようなことを人に聞こうとし、人に聞いたらすぐ解決するようなことを聞かずに自分ひとりで考えようとするんですね。笑 でも、以前はわたし自身が問いが浮かばない、質問ができない人間でしたし、最初からうまく問えるような人はいません。そのことの大切さを自覚しながら、実際に体験を重ねることでしか、「良い問いとはどんな問いか?」を掴むことなんてできませんので。
多くの人は、目の前にある事実に対し、無自覚に自分の観念や考え、見方、思考などを上乗せしていながら生きています。「人間は観念の動物」とも言われ、観念なしに生きることは不可能ですから、事実と観念とごちゃまぜになった状態がリアルな現実だと錯覚してしまうわけなんですが、だいたい、世にあるさまざまな問題は、こうした事実と観念の混同によって生じていると言っても過言ではありません。
たとえば、寺子屋塾には不登校の子どもやひきこもりの青年も受け入れているんですが、不登校やひきこもりに対処するための特別なプログラムを講じていないにもかかわらず、ただ算数・数学のプリントをやっているだけで、自然と学校へ行けるようになったり、家から外に出られるようになってしまうということが起きてきます。この教室を始めて間もない頃は、なぜそういうことが起きてくるのかがわたし自身も不思議でよく分からなかったのですが、いまはこうして言語化して説明できるようになりました。
つまり、らくだメソッドの学習が進んでいくと、自分についての情報を一覧化して事実をベースに俯瞰できるようになってくるようで、この記事で西尾さんが書かれているように、目の前に展開している現実世界に対して、事実の部分と、自分や他者がそれをどう見ているのかという観念の世界が次第に分離し、自分がいまどういう思考回路にとらわれているかが自分で客観視できる感覚とでもいったらいいでしょうか。これは能を芸能として大成した世阿弥の「離見の見」という極意にもつながっているようにも感じています。
そうなってくると、自分が自分だとおもっていたものが、じつは幻想やおもいこみにすぎず、いろんな出来事がただただ起きているだけだという感覚が体感としてつかめてきて、自分の固有の課題が明確になり、人からの評価や比較というものがそれほど重要なものでないということもわかってきて、次々と展開していく目の前の現象に振り回されにくくなってくるのでしょう。