お釈迦さまが実践されたこと(つぶやき考現学 No.86)
2021/10/06
お釈迦さまは
「人はどうすれば幸せになれるか」ではなく、
「苦なく生きるということはどういうことか」
を考え実践した人だったようです。
とはいえ、最初は生老病死・・
つまり、人が生きて行くうえで
誰もが例外なく直面せざるを得ない
さまざまな苦を真に終わせるためには、
どうすればいいかを考えようとして
出家したことからスタートされたのです。
ところが、さまざまな難行苦行を体験されるなかで
「どうすればいいか」と考える思考そのものが
苦をうみだしていると気づかれ、
さらに、その思考をつぶさに見つめる中から、
「どうすればいいか」と考えてしまう
思考自体を生み出している
モトの存在(*サンカーラ)に気づかれたのでした。
そこから、苦を真に終わせるためには、
「どうすればいいか」と考えること自体を止め、
いま感じている苦しみから目を反らさず、
自分、他者、そしてこの世界を
ありのままに受けとめ
つぶさに観察し続けている
自分になることだと気づかれたのです。
もちろん、ダメな自分、イヤな過去、
観たくないまわりの現実を観ることには、
痛みが伴うこともすくなくなく、
苦を生み出す人間の精神構造(=五蘊観)
そのものを理解することや
何をどのように観るかには
個別の特性に合わせた鍛錬を
日常生活のなかで実践することが必要で、
易しいことではありません。
でも、その自分が観たくないとおもっている
ごちゃごちゃした現実や、ダメな自分、
イヤだとおもっている過去の事実はいずれも
自分という人間のとる態度如何に関係なく
存在し続けています。
生きることに感じる苦のほとんどは、
結局自分がつくりだしたフェイクであって、
そのことを認められず、
観ることで生じる痛みを
自分が避けている限り、
見えない盲点にそのまま温存され
苦がずっと続いてしまうと気づいた・・・
つまり、人生とはそもそも苦であったのだと。
誰にも訪れる生老病死の事実は無くせず、
そのことばかりは諦めるほかないんだと。
そして、諦めるということは、
決して人生を放棄してしまうことではなく、
その苦である人生をあるがままに
事実を事実としてねじまげずに観て、
余分な意味づけをせず、
いまというこの瞬間をそのまま
まっすぐ受けとめて生きていくことであって、
苦の事実は無くせなくても
自分自身が生み出した苦については、
自ずと消えてゆくんだと。
この釈迦の教えは
釈迦の死後に仏教としてまとめられましたが、
こんにちではこの仏教は
宗教のカテゴリーに分類されていますし、
とりわけ現代の日本においては、
「葬式仏教」などと揶揄されるなど
長い歴史を経るなかで
形骸化されてしまっている面も否めないでしょう。
しかし、釈迦自身は、
死後の幸せのあり方を説いたわけでも
「神を信じなさい」と言ったわけでもありません。
今をいかに生きるかについて考え説き、
そして、ただ考え、ただ説くだけでなく
自ら実践されたわけですから、
釈迦の教えの一番土台となっているものは
見えないものを信じる宗教というよりはむしろ
〝生きるための実践哲学〟と言った方が
適切なのではないでしょうか。(2018.12.18)
注*サンカーラ=釈迦の説いた
五蘊観「色→受→想→行→識」4番目のプロセスのこと。
サンカーラは、意識される前段階にあるものといえ、
現代の心理学的な見地では「無意識」「潜在意識」と
呼ばれる領域に近い内容を指していますが、
漢訳で〝行〟という漢字が宛てられたため、
その解釈に混乱が生じているように感じています。
※画像はナム・ジュン・パイク(白南準:1932〜2006年)が1975年に制作した「TV仏陀」
※井上淳之典のつぶやき考現学 No.86