寺子屋塾

らくだの教室はお寺のようだ

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らくだの教室はお寺のようだ

らくだの教室はお寺のようだ

2021/10/07

昨日のblog記事はお釈迦さまの話を書いたんですが、「なぜ塾なのに、お釈迦さまなんだろう?」と疑問におもわれた方があったかもしれません。

 

それで、今日の記事ではその種明かしにつながるようなことを書いてみようかと。

一昨日のblog記事は「プリント学習の先にあるもの」というテーマで書いたんですが、現在大人になってかららくだメソッドで学習しようという人たちの多くの目的は、算数・数学ができるようになることではなく、それ以外のところにあると言っていいでしょう。

 

その「それ以外のところ」は、少しまえのblogで紹介した、本田信英さんが作った「寺子屋塾生への33の質問」に対しての8名の塾生たちの回答をご覧いただければわかるんですが、個別に異なり一括りにできるものではありません。一括りにはできないのですが、それでも全くのバラバラなものかといえばそうとも言えず、ある共通する世界観のようなものにゆるくつながっているように感じています。

 

その共通する世界観のひとつが〝仏教〟で、昨日のblogでは「釈迦の実践したこと」について書いた詞を紹介したのは、そうした流れのつもりだったんですが、そこに書いたとおり、わたしは仏教を宗教のひとつというよりは実践哲学という風に解釈しているので、「仏教的世界観」というような言い方をするよりは、「釈迦の実践哲学」と書いた方が誤解が少ないかもしれません。

 

わたしが寺子屋塾を始めるちょっと前のことだったんですが、らくだメソッドの開発者である平井雷太さんが、らくだメソッドの教室「すぺーすらくだ」(後に「すくーるらくだ」と改称)を始められてからずっと教室内外に向けて月刊で出されていた「らくだ通信」に、教室の見学に訪れたお客さんが「ここはお寺のようだ」と言われた話を載せていたのを、とても印象深く読んだ覚えがあります。

 

なぜ、塾なのにお寺のようなのか、お釈迦さまの実践と教育の話がどうつながるのか、といった疑問に対しての回答にもなるように感じたので、平井さんの著書『らくだのひとり歩き』より、「らくだ通信」の記事をご紹介することにしました。

 

(引用ここから)

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「すぺーすらくだはお寺のようだ」

 

韓国からの留学生・崔東民(チェ・トンミン)さんが、すぺーすらくだの見学に来ました。東大の宗教学の研究生でしたが、この4月より大正大学の大学院に入って、密教の研究をしています。また、彼は都内数ヶ所でヨガの指導もしています。

この崔さんが、すぺーすらくだの感想として、「すぺーすらくだはお寺のようだ」とおっしゃったのです。その崔さんに、すペーすらくだのスタッフ李由子がインタビューしました。

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李:すぺーすらくだを訪ねたきっかけは何だったのですか? 

崔:東大のそばにある「大きなかぶ」という自然食レストランで、偶然平井(雷太)さんと会ったんです。そのあと、この店で売られていた平井さんの本『子育て廃業宣言』を読み、すぺーすらくだのことを知りました。この本の中に書かれている詞を読んで、教育の原点に戻っているなと感じ、らくだに興味を持ちました。 

李:教育の原点とはどういうことですか? 

崔:「勉強する」というと、物事をたくさん覚えればいい、と考える人がいるかもしれません。でも「勉強」というのは、知識を積み重ねるという意味ではない、と私は思うのです。むしろ、「自分を見つめていくこと」、つまり今まで「気がつかなかった自分を発見していくこと」が「勉強」なのではないでしょうか。

李:でも、すぺーすらくだでやっていることは、プリントを使って問題を解いているだけですよね。これが「自分を見つめていくこと」や「気がつかなかった自分を発見していくこと」につながるのですか?

崔:すぺーすらくだでやっていることは、問題を解くことが目的になっていないと思います。「~を勉強する」というと、問題を解くことが目的になります。この場合には、「勉強している自分」と「勉強して得たもの」が平行線をたどり、その知識と人格が重なり合いません。関係がなくなってしまうのです。でも、すぺーすらくだでは「~で学ぶ」 というように、プリントを手段として使っているように思えるのです。そのために、世界に対応する、自分の単一性を学べるのです。それは、人間の内面を豊かにするものです。 

李:崔さんが、以前すペーすらくだにいらした時に、すぺーすらくだの感想として、 「すぺーすらくだはお寺のようだ」とおっしゃっていましたが、何故そう思われたのか話して下さい。

崔:現在、お寺といえば、お葬式や法事をするところという印象があるので、こう言うと皆さんはびっくりするかもしれませんね。でも、お寺というのは、本来、教育の場としてできたものです。釈迦もキリストも、人間の進むべき道を教えた人、すなわち教師だったのです。その道について、皆で一緒に学ぶ場として生まれたのが「お寺」でした。一種の共同体のようなものですね。

李:共同体?

崔:「お寺」は、誰かが先生になり、一方的に教えるという場ではありません。一人一人が「自分を見つめていくこと」を目的に、お互いが刺激を与えあう共同体なのです。ここでの先生というのは、先輩としての導く役割を果たしています。この意味ですぺーすらくだは、一種の共同体であり、「お寺」のようだと思ったのです。 

李:「お寺」が、一人一人が「自分を見つめていくこと」を目的に、お互いが刺激を与えあう場としてあるなら、確かに、すペーすらくだは「お寺」かもしれませんね。子どもと関わる中で、「自分を見つめること」ができますし、子どもだけでなく自分自身も変わることができますからね。 

崔:あと、「らくだ」というネーミングに興味を持ちました。 

李:どうしてですか?

崔:すぺーすらくだの「らくだ」という名前は、動物のらくだではなく、「楽だ」という意味ですね。英語で“disease”というと、「病気」という意味。「病気」の反対語は、普通「健康」と思われるかもしれませんが、本来の意味は違うのです。 「病気」の本来の意味は、「楽ではない状態」を言いますので、「病気」の反対は 「楽な状態」。つまり、「楽だ」という事は、「健康である」ということなのです。これらのことを考えても、すぺーすらくだは本当に興味深いところだと思います。すぺーすらくだは、健康になるための道場なのではないでしょうか。

 

※ 1988.4.25発行「らくだ通信」第52号(平井雷太著『らくだのひとり歩き セルフラーニングネットワークの10年』(1993年4月・社会評論社刊)所収

 

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