易経というモノサシをどう活用できるか
2021/10/27
一昨日の記事「わたしが易経から学んだこと」に、「自分の頭で考えるためのモトになる〝モノサシ〟の役割を果たしてくれた」と書きました。
今日はわたしがこの〝モノサシ〟をどう活用してきたかについて、もう少し具体的に書いてみようとおもいます。
この世の中は、すべて「陰」と「陽」という異なる性質をもった2つのエネルギーの組み合わせから成り立っているというのが易経の世界観なんですが、言い換えると、「何かの現象があるとき、それは単独で成り立っているのではなく、必ずそこに2つの力が働いている」と見るわけです。
たとえば、新型コロナ感染症という問題を考えるとき、ウィルスがその原因とされているわけですが、2020年2月に起きたダイヤモンド・プリンセス号の事件において、3711名の乗客のうち、新型コロナウイルスに感染した人は全体の二割弱にあたる712名で、3000人近くの残りの人たちは感染しませんでした。
もちろん、ダイヤモンド・プリンセス号は大きな豪華客船ですから、乗船した人たちがすべて同じ環境に置かれていたとは言えないでしょうし、暴露したウィルス量に個人差があったかもしれません。
でも、現実に感染する人と感染しない人がいたというのは、ウィルスの存在以外にも、感染するかしないかを峻別している何からかの要因があると考える方が自然で、それは単に暴露したウィルス量の違いであるとか、運が良かったとか悪かったとかいうことだけで片付けられる問題だとはおもえないのです。
肥満であったり、糖尿病などの基礎疾患がある人が重症化しやすいと言われていたり、わたしたちが普通に暮らしている生活環境に比べれば、かなり厳しい衛生管理が行われている(はずの)病院や福祉施設で、クラスター感染といわれる現象が頻発することも、その証しと言ってよいでしょう。
つまり、身体の外側から体内に侵入するウィルスだけが感染症の原因ではないのです。もともと免疫力の低下した状態の身体がその前提としてあり、そうした状態の身体とウィルスという異なる2つが組み合わさることによってはじめて感染が成立する・・・
でも、このように、2つのうちのひとつが見えるものであっても、もうひとつが見えないもの、見えにくいものであったりするので、その組み合わせに気づかないこと、一方を見落としてしまうことは少なくありません。
過去にそのようなことを詞(つぶやき)の形で書いたものがあるので、以下にそれをご紹介。
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「あるがままに生きる」って
言葉がありますが、
それって、自分の好きなように
気ままに生きるとか
流れのまま身を任せることだって
けっこう多くの人が
誤解してるようにおもうんですね。
じゃあ、どういうことが
「あるがままの自分で生きる」ってことなのか、
少し前の自分には、
なかなか人にわかるように話したり
うまく説明したりできなかったんだけど、
最近そのことが真に腑に落ちて
いろんなことと関連づけながら
語れるようになったようにおもうので、
今日はそれについて話してみましょうか。
たとえば、わたしたちはよく、
「川が流れている」って言いますが、
考えてみてください。
本当に「川」は
流れているのでしょうか?
いや、流れているのは「川」でなく
「水」ですよね? 笑
でも、川の存在はそのままそこにあって、
流れているのは「水」であるのに、
なぜ、わたしたちは、ふつうに
「川が流れている」って言っていて、
しかもそのことに
あまり異和感がないのか・・・
この問いを考えるなかに、
「あるがままに生きる」とは
いったいどういうことかについて
解き明かすヒントがあるようにおもうのです。
おなじように、「雨が降っている」
「風が吹いている」という文も、
文の主語が「雨」や「風」でないのに
わたしたちは何の異和感もなく
日常でアタリマエのように使っていますよね。
この「雨が降っている」
「風が吹いている」の
文の主語はいったい何でしょうか?
すこし考えてみてください。
ところで、鎌倉時代に書かれた
平家物語の冒頭に登場する
「諸行無常」という言葉がありますね。
この有名な四字熟語は、
ちょうどその頃に仏教が庶民の間で
広まっていった時代を反映して
「仏教的世界観を表している」と
言われることもあります。
でも、この「諸行無常」という言葉は、
古代ギリシアの哲人ヘラクレイトスの言った
「万物は流転する」という言葉と
同じような意味あいで
受け取られることが少なくないようです。
つまり、すべてのものが
変化するのは止められないので、
流れるままに身を任せるより
仕方が無いんだというような
諦(あきら)めの気持ちが
強く感じられますよね。
そうした受け止め方も
もちろん間違いとは言えないのですが、
でも、それだけだと
表面的というか、浅いというか・・
じつは、「諦め」の「諦」という漢字には
「本当のことがあきらかになる」
「ものの真実をよく見る」
という意味があるのです。
それで、この「本当のこと」って
いったいどういうことなんだろう、
「真実をよく見てみよう」って
考えてみたんですね。
この「無常」という言葉について
その意味することを
よくよく考えてみると、
つまり、「常ならないもの」と言えるのは、
その前提として
「常あるもの」があればこそなんです。
「川が流れている」というのは、
川という変わらない存在があればこそ、
そこに水が流れることで、
変わっていくようすを見せているわけで。
つまり、変化するというのは、
変化しないものがあるから言えることで
変化するもの片方だけでは
存在できないわけだし、
言い換えるなら、
変化するものと変化しないものは
かならずセットで存在していて、
目には見えない、変化しないものこそが
変化するものの母胎でもあるんだと。
よって、「あるがまま」とは、
流れるままに身を任せ、
「常ならないもの」である
わたしの側に軸足を置いて
自由気ままに生きればいいってことではなく、
わたしという「常ならないもの」を
存在たらしめている
「常あるもの」を大事にして、
このわたしを生み出したオオモトとして、
つねに意識しようとする姿勢を
言うんじゃないかって気づいたんです。(2019.8.12)