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わたしが易経から学んだこと

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わたしが易経から学んだこと

わたしが易経から学んだこと

2021/10/25

10/17の記事に、寺子屋塾で易を学ぶ場を始める理由を、「62年余になるわたしの人生をふりかえって、長く易経について学んできてつくづく良かったとおもっているから」と書きました。

 

そして、その良かった点として具体的に実感できていることとして、「自分の頭で考える力が鍛えられたこと」を挙げたんですが、これだけではほとんどピンと来ないとおもいますし、今日は何がどう良かったのかについて、もう少し詳しく書いてみようとおもいます。

 

易経の中心をなす64の卦辞は、書かれているコトバの抽象度がとても高く、いったい何が書いてあるのか最初はチンプンカンプンでまったくわかりませんでした。

 

たとえば、9/22の記事に書いたような話がこれにあたるんですが、卦辞の記述と日常の生活次元の事柄とを関連させながら読み解く難しさに常に直面するため、そのことで考える力が鍛えられたということもありました。

 

でも、それよりも大きかったのは、易経が「自分の頭で考える」ためのモトになる〝モノサシ〟の役割を果たしてくれたことです。

 

マクロビオティックの創始者・桜沢は、「西洋思想と東洋思想の違いをハッキリ見定めることがとても重要だ」という主旨のコトバを著書に書いていて、そうした点では、易経よりも桜沢という人の影響を強く受けたと言えなくもないんですが。

 

西洋思想の特徴をものすごくシンプルに表現するとすれば、一神教であるキリスト教がその象徴といえ、絶対唯一の神が存在し、善悪を明確に分けようとします。

 

それに対し東洋思想の特徴として言えることは、「八百万(やおよろず)の神」が存在する日本の神道がとても象徴的なんですが、易経の「陰と陽」という見方は、陽が善で陰が悪というように、単純に善悪を示しているのではありません。

 

たとえば、こちらの記事でご紹介した無双原理12定理の11番目にあるんですが、陰が極まれば陽に反転し、陽が極まれば陰に反転するという動的な変化のプロセスとして捉え、陰と陽は絶対的なものでなく、相対的なものにすぎないと考えるわけです。

 

あまり聞き慣れない言い回しかもしれませんが、対比的に表現するなら、西洋思想は「一元的な二元論」、東洋思想は「二元的な一元論」と言ってよいでしょう。

 

「易」という漢字は、トカゲの象形文字で、色がすぐ変わることから〝変化〟を意味するコトバであり、易経を英語では、The Book of Changes ということも前の記事に書きました。

 

占いではよく「吉」とか「凶」とか言いますが、そのまま単純に善悪に置き換えられるものではなく、吉が出たからといってずっと吉ではなく容易に凶に変わり得るし、逆もまた真なりというわけです。

 

今までの人生をふり返ってみたとき、どんなに窮地に追い込まれたときも諦めずに持ちこたえられたのは、こうした見方や考え方がギリギリのところで自分の支えになったのではないかと。

 

たとえば、かつて書いた次のような詞には、わたしが易経から学んだことが色濃く反映されていると言ってもいいかもしれません。

 

 

●どん底まで落ちたら 

あとは浮上するだけだ。

だから、何も心配する必要はない。 

 

どん底までしっかり落ちきらず

中途半端にジタバタすると、

苦しみをいつまでも

ひきずってしまうからだ。

 

落ちる前の自分を原点と考えると 

どん底はつらいが、 

どん底こそ自分の原点とおもえれば 、

あるものすべてが恵みとなるから、

恐れることは何もない。(1998.7.20)

 

 

 

●生と死は

1枚のコインの表と裏のようなもの。

表だけのコインが存在しないように、

生だけ体験することはできない。

 

1枚のコインの

表と裏を同時には見えないが、

表を見ながら

裏を意識することはできる。

 

表があれば裏があるのはアタリマエで、

裏があればこそ表があるからだ。

 

生と死とは似ても似つかぬものだが、

生があれば死があってあたりまえで、

死があるからこそ今ある生が輝く。(1998.7.31)

 

※図版は伏羲による64卦方位図

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