合格不合格にとらわれない学習 〜めやす時間の意味〜
2021/12/28
現在は休会中なんですが、以前寺子屋塾で
学習していた塾生の文章をご紹介しながら
めやす時間の意味について
考えてみようとおもいます。
ただ、当塾での学習は、
学校や他塾と大きく異なるので、
書かれている内容の前提に関わることを
わたしの方で少しだけ書いておこうとおもいます。
当塾の基本教材らくだメソッドは、
どの教材からスタートするか、
1日にどれだけの量を学習するかなど、
自分の能力や性格、生活環境等に合わせ、
学習者自身でカリキュラムをカスタマイズ
できるようになっています。
よって、学習を進めていくやり方は個別に異なり、
一律でないんですが、
いくつかのルールがあります。
たとえば、すべてのプリントにめやす時間が設定され、
「めやす時間台ででき、ミス3個以内であれば、
次のプリントに進んでも良い」という
ルールもその一つと言えます。
学校のテストだと配点が100点満点で、
先生が採点し評価する形がほとんどでしょうが、
らくだメソッドの場合は、自分で答え合わせを行い、
その結果を自分で学習記録表に
書き込んでいく形になっているため、
当塾にはいわゆる成績表はありません。
指導者の評価に頼らなくても、
自分でプリントが出来たかどうか
学習者自身が判断できるように
ルールを設定しているわけです。
つまり、ルールは
学習者に制約を課すために設けているわけでなく、
自由な学びを保障するために設定しているので、
そのルールをどのように運用するかについて
最終的な決定権は、
指導者側でなく学習者の側にあると考えています。
学校教育では、何をどのように学ぶかについては、
文部科学省による学習指導要領や
先生によって決められ、
学習者自身で決められる余地はほとんどありません。
当塾は、学校でも家庭でもできない
学びの場を実現するために、
「学習者の自己決定権を保障する」姿勢を
大事にしていて、
学習していくプロセスは学習者毎に異なり、
学習者のいまの姿が浮き彫りになってくることに
意義があると考えている次第です。
この学習で何に気づくかは一人ひとり皆違うので、
わたしが説明することは不可能なんですが、
以下の文章からそうしたプロセスの一端を
感じ取っていただければ幸いです。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪
セルフデザインスクール寺子屋塾に入会して早2ヶ月。
今はこういう計算問題を毎日やっています。
できない日もありますが(笑)
ここの塾では「自ら考えすすんで学習する姿勢」を
大切にしています。
そのため、このプリントを
どういうふうに進めていくかは、
自分で決めていいんです。
私は合格したら次に進むという手法をとっていました。
けれど、最近になって
合格できないことが増えてきました。
(小学校で習う計算問題といっても、
合格するためにはめやす時間台とミス3つまでという
条件をクリアしないといけないのです)
あるとき、先生から
「合格しても、最低2枚はやるというルールで
すすめていってはどうですか?」と
投げかけをいただきました。…!!!
なんで「合格」にこだわっていたんでしょうね?私は。
「合格」を目指すと、どんどん自分を追い込んで、
合格できない自分に嫌気がさしていきます。
単なる計算問題なのに。
別に計算問題のプリントができなくたって
生きていくには困らないのに。
自分に嫌気がさすまでいくって…(苦笑)
「負けず嫌い」という言葉があります。
私はこれが素敵なことだと思っていたし、
私の長所として
「負けず嫌い」をあげたことも多々あります。
でも、これって
本当にいいことなのでしょうか??
「負けず嫌い」の私は、負けないことを
目指して頑張っていました。
負けたら負けた自分がダメという思考です。
でも、ちがうのでは?
負けたという事実だけを認めればよいのであって、
それを自分の評価と連動させる必要なんて
これっぽっちもないのではなかろうか?
そもそも負けるって何だ??((笑)) (2016.1.23記)
♪ ♪ ♪ ♪ ♪
たかが算数、されど算数・・・ですね。
学習は、勝ち負けの競争ではありませんし、
個別固有のものといえるでしょう。
らくだメソッドでは、できたかできなかったかを
自分で判断するためのルールを、
「めやす時間台、ミス3個以内」というように、
「だいたい」とか「おおよそ」という意味をもつ
〝めやす〟という言葉を使って
敢えて曖昧な表現にしているんですが
実はこれがミソ!なんですね。
たとえば、めやす時間12分のこのプリントであれば、
12分以内ではなく、
12分59秒までにできれば合格としているんですが、
あらかじめ、外側に設定された枠に
自分を合わせようとすることよりも、
そのプリントが
できたかできなかったについての実感が
自分自身でもてているかどうかの方を
大事にしたいためです。
できない自分をそのまま認めることは、
表面意識次元だけでみるなら
辛いことのように感じるかもしれません。
でも、そもそも最初からできるようなことなら
学習しなくてもよく、
むしろできない状態があたりまえ!
といえるのではないでしょうか。
生きているといろいろ苦しいことに出会うんですが、
その苦しみのルーツを辿っていくと、
自分で勝手につくりだした枠にガンジガラメになり、
自分で苦しみを生み出していることが
ほとんどであるように、
わたし自身の経験からもおもいます。
つまり、できないことが
なぜ辛くなってしまうのかというと、
自分の力や意志ではどうしようもできない
他者目線で設定された枠のみを基準にして、
勝手に自分に取り込み内面化してしまうためです。
コントロール不能で、しかも常に変化し得る
他者目線で設定された枠を基準に考える限り、
そこに到達することは、永遠に訪れません。
でも、その辛さを作り出している張本人は
結局のところ、
ほかでもない自分自身なんですね。
「できない」自分を
そのまま認めることではじめて
「できる」に向かっていけるわけで、
できない自分を認めることは
学習のスタートラインに立つことなのですから。
自ずとできるようになっていく自分を
信じることさえできれば、
また、他者目線で設定された枠に依拠せず、
自分自身の実感をもとに
「できる」「できない」を判断できているなら、
いま「できない」事実や
まわりからの評価に対して、
ことさらに振りまわされずに済み、
目の前にあるやることに集中して淡々ととりくみ、
「できる」に向かっていけるのではないでしょうか。