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もしこんな相談を受けたらどう応対しますか?(解答篇)

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もしこんな相談を受けたらどう応対しますか?(回答篇)

もしこんな相談を受けたらどう応対しますか?(回答篇)

2022/01/27

今日は昨日の記事に書いた相談に

わたしならばどう応対するかを

書いていこうとおもうんですが、

まずは、相談の内容をもう一度書いておきます。
 

 わたしはフェミニストで、

 ふだんジェンダー差別には敏感なのに、

 女性がレイプされるAVには興奮してしまいます。

 夫にはそういう性癖を打ち明けられず、

 悶々としてしまうわたしは、

 どうすればいいのでしょう?

 

最初に、こういう内容の話が

悩みとなってしまう「背景」についてなんですが、

この背景が理解できているかどうかは

かなり重要です。

 

つまり、そもそも悩みはどうして生まれるのか、
というと、こうした問いに対する〝正解〟が

どこかにあるとおもいこんでしまっているためで、

悩みの要素のひとつを言い換えると、

自分がその正解を見つけられないことに対しての

「焦り」や「苛立ち」のことなんですね。

 

なぜ、そうなってしまうかという

大きな理由のひとつとして、

わたしたちが学校という場所で、

長年にわたって

知識を身につける形の教育を受け、

正解があることが大前提となっている問題を

考えさせられ、テストを強制的に

受けさせられてきたことがあるんではないかと。

 

もちろん、そのすべてが

学校のせいだとはおもいませんが、

すべての問題には、

どこかに必ず正解が存在するんだという

〝正解幻想〟のようなものを

たぶん、かなり多くの人が持っていて、

無意識のうちに嵌まっている

落とし穴であるように感じることが

少なくありません。

 

よって、考え方の基本姿勢として大切なのは、

「どこにも正解はない」というところに

自分を置くことです。

 

逆に言うと、どんな答をだしても、すべて

(自分にとっての)正解になるということです。

 

さて、いよいよ

問いの中味にはいっていくわけですが

冒頭の写真に示したとおり、この問いには、

1.「フェミニストでジェンダー差別に敏感」

 →共同幻想の問題

2.「女性がレイプされるAVに興奮する」

 →個人幻想の問題

3.「夫に自分の性癖を打ち明けられない」

 →対幻想の問題

という3つの幻想領域が混在しています。

 

つまり、この3つの幻想領域は

そもそも異なる次元にあるものですから、

このうちのどれかひとつだけが

常に大事だということはありません。

 

言い換えると、これら3つの幻想領域というのは、

3つともすべてが同じように大事なのであって、

そもそも、その良し悪しなど

比較して論じることができない相談なのです。

 

たとえるなら、

「身長」と「体重」と「靴のサイズ」を

数字だけを見て比べようとしているようなもの

とでも言えばわかりやすいでしょうか。笑

 

だから、この問いに対する唯一無二の正解はなく、

人によって違うわけですから、

自分にとってどうかということだけを考えて、

自分なりの答を出せばいいわけです。

 

そして、自分なりの答を出すためには、

「共同幻想」領域の問題と

「個人幻想」領域の問題と

「対幻想」領域の問題とを意識し、

混同せずに分けて考えることが肝要です。

 

つまり、もしこの中から

ひとつだけをどうしても選ばなければいけない

ということならば、

フェミニストであることを一番大切にしたいのか、

自分の個人的な感じ方を一番大切にしたいのか、

夫との関係を一番大切にしたいのかという

以上3つのなかで、自分が一番大切にしたいものを

選べばいいわけですし、

もし、どうしても選ばなければいけないような

必要性がないのであれば、

比べること自体をやめ、

そのままにしておけばいいだけのことです。

 

なぜなら、

「フェミニストでジェンダー差別に敏感」

であることと、

「女性がレイプされるAVに興奮する」

ということは、

もともと次元の異なることであるとすれば、

同じ一人の人間のなかで起こりうることで、

矛盾でもなんでもなく、何らおかしくありませんし。

 

 

さて、わたしがこのような捉え方を学んだのは、

吉本隆明さんの著書を読むようになったことが

大きいのですが、

吉本さんが書かれた『共同幻想論』については、

「国家は共同の幻想である」という

有名な一文があることから、

国家を論じた書物と言われることが少なくありません。

 

たしかに、それもあながち

間違いとはいえないのですが、

それは『共同幻想論』のごく一部にすぎなくて、

この書物の凄さというか、真の価値は、

宇田亮一さんが

『吉本隆明「共同幻想論」の読み方』に書かれたように

人間社会の本質とその歴史を

「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」の

関係構造として取り出したところ

あるようにおもうのです。

 

たとえば、吉本さんの『共同幻想論』に、

「個人幻想と共同幻想は〝逆立(ぎゃくりつ)〟する」

という特異な言い回しが出てくるんですが、

吉本さんが、なぜ「矛盾」とか「対立」といった

既存の言葉を用いずに、敢えて

〝逆立〟という新しい言葉をつくられたのか、

その理由がわかるようにおもいませんか?

 

『共同幻想論』では、

「古事記」と「遠野物語」をもとにしながら、

この「逆立」の他、

「同致」「同調」「侵蝕」「侵入」「追放」

といった言葉で、各々の幻想領域同士の

相互関係に言及、考察されているのですが、

この3つの幻想領域の内部構造とその表現、

成り立ちについて把握し、

各々の〝相互関係〟を解明することができれば、

人間が生きていく上で必然的に生み出さざるを得ない

観念世界の問題を統括的に把握し、

アプローチするためのヒントが得られるんだと

吉本さんは書かれています。

 

ちょっと難しいですかね。

 

ごくごく簡単に言うと、

「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」は

もともとはひとつのものだったので、

人間はそれらをすぐに

ごっちゃにしてしまいがちなんだけれども、

そのつながりを意識しつつも

ちゃんと区別して

混同しないようにすればいいってことです。

 

でも、「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」は、

すこし前にこちらの記事でも書いたとおりで、

そのつながり具合は、国や民族などで異なり、

しかも時間の経過によっても変わり得るだけでなく、

個々においてはオートマ車のギアチェンジのように

自分が意識せずとも

自動的に切り替わってしまうようなものだから、

瞬間瞬間にこれらを意識し、区別すること自体が

易しくない課題なのかもしれません。

 

たとえば、日本には「1日3食」という

生活習慣があります。

 

でも、なぜ3回食べる必要があるのかというと、

その根拠はどこにも存在しないと言われていて、

これなどは、人間が自分の身体・生命維持のために

食事を摂るという個人幻想領域の問題が

ひとつの社会規範のような形をとり、

共同幻想の問題となってしまったことの

一例と言っていいでしょう。

 

しかも、わたしたちが

「1日3回食べなければ」とおもうのは、

個人としての食欲から自ら望んでそうしているのか、

社会的な規範からそうさせられているのか、

自分でもわからなくなってしまっていたりします。

 

また、昨今の新型コロナ騒動から生まれた

マスクの習慣なども似たところがあります。

 

そもそも「感染症を防ぐ」という個々人の問題が、

いつの間にか、みんながしているから

国から要請されているから、

自分もマスクをしなければと行動したり、

みんなが守るべき社会規範のような様相に

変わってきたりしていますから。

 

そもそも、

「国が国民に対して不要不急の外出を

 自粛するように要請する」って

おかしな日本語なんですよね。

 

なぜなら、この「自粛」というのは、

「自分から進んで〜を控える」という意味で

つまり、個人幻想領域の問題なのに対し、

「要請」というのは、

「他者に働きかけ要望する」という意味で、

つまり、対幻想領域もしくは、

共同幻想領域で使う言葉ですから、

人から言われてすることとか、

誰かから要請されてする行為に対して

「自粛」という言葉を使っていること自体が

変なんです。

 

つまり言い換えると、本来は逆立しているはずの

個人幻想領域の話と、共同幻想領域の話とが

ごちゃまぜになってしまっているんですが、

いまの日本には、

そのことをオカシイとおもうひとが

ほとんどいない状況になっているようで。

 

 

さて、それでようやくTVドラマ『逃げ恥』です。

 

あのドラマをなぜわたしが

20回も30回も繰り返し観ているのか、

つまり、TVドラマ『逃げ恥』を

吉本隆明さんの『共同幻想論』で

リフレーミングしながら観るというのは、

具体的にどういうことなのかを語る準備が

今日まで6回ほど続けて書いてきた記事で

ようやく揃ったわけなんですが、

ここまででだいぶ長くなってしまったので、

続きはまた明日に。(^^)/

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