ガッキーと源さんの結婚を予感していたわけ(その5)
2022/01/28
今日1/28は、
星野源さん41歳の
お誕生日ですね〜
おめでとうございます!\(^O^)/
昨日までに書いてきた記事でようやく、
吉本隆明さんの『共同幻想論』で
リフレーミングしながら観る
について、具体的に書いていくために必要な
前提条件がほぼ出揃いました。
しかも、何と今日は源さんの誕生日ということで、
11/10から11/13まで4回にわたって書いた
「ガッキーと源さんの結婚を予感していたわけ」
の続き記事を書くための、
これ以上の舞台設定は
ないんじゃないかということに。
よって、このblog記事を
続けて読んで下さっている方は問題ないんですが、
今日初めてアクセスされた方は、
すくなくとも、以前に書いた4回分の記事、
11/10 ガッキーと源さんの結婚を予感していたわけ(その1)
11/11 ガッキーと源さんの結婚を予感していたわけ(その2)
11/12 ガッキーと源さんの結婚を予感していたわけ(その3)
11/13 ガッキーと源さんの結婚を予感していたわけ(その4)
および
1/21の記事から昨日までの記事を読まれて、
(中でもとくに1/25に書いた
吉本隆明さんの著作『共同幻想論』『心的現象論』の
骨格部分にあたる、
「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」の
内容や違いについてある程度は理解されたうえで
本日分以降書いていく続きの記事をご覧いただけると
きっと楽しみながら
読んでいただけるんじゃないかとおもいますので、
よろしくおねがいします。
ところで、なかなか叶わない恋、結ばれない恋は
恋愛物語の王道であり、
禁じられた恋のもどかしさ=ムズキュンは、
最高度の熟達した恋愛物語の王道で、
それがドラマ『逃げ恥』ヒットの理由だという話は
わかるけれども、
本題はそこじゃないでしょ!という指摘が
こちらの記事などにありました。
また、ドラマ『逃げ恥』の
脚本を担当された野木亜紀子さんも、
雑誌SWITCH 2021年1月号に掲載されている
インタビュー記事で次のように語っています。
(引用ここから)
ーーーーーーーーーー
「原作自体が、決してキュンだけではなくて、
様々な問題提起がなされている作品なんですよね。
加えて、私は『逃げ恥』を
〝人間と人間のディスコミュニケーションの物語〟
だと捉えていて。
結局のところ人はみんな別々の人間。
それぞれ違うことを考えているし、
簡単にはわかり合えない。
そこに人と人が共に生きる難しさと面白さがあると
思っているんですね。
視聴者のみなさんがキュンとしたのも、
ディスコミュニケーションを乗り越えて、
みくりと平匡が近づこうとするんだけど、
上手くいかない、そのなかなか縮まらない
距離感の部分で。
それが結果的にキュンとしたり、
切ない気持ちを呼び起こした。
だから、キュンキュンしていただくぶんには
構わないんですけど、
『逃げ恥』がそれだけの作品だと思われてしまうと、
確かにキュンはあるんだけど、
そうだけどそうじゃないんだ、という
複雑な思いがあります(笑)。
〔引用ここまで〕
妄想癖のある就職難民の森山みくりと、
恋愛難民の津崎平匡が
雇用契約を結ぶところから始まる
『逃げ恥』の舞台設定は、
ちょっと現実離れしたところがあって、
ドラマでしか起こり得ないようなところは
もちろんあります。
実際、ドラマですからね。
当たり前の話です。
野木さんの語りの続きです。
(引用ここから)
ーーーーーーーーーー
社会派の部分に関しては、回を重ねるごとに
ジワジワと入れていきました。
やっぱり、第一話からいきなり主婦の価値を
前面に掲げたって誰も観てくれないよなぁ
ということで、
序盤はラブコメをきちんとやりながら、
中盤から少しずつ、
原作にある問題提議の部分を増やしていって、
最終的に本丸はそこにあったと、
気付いてもらう構成にしました。
〔引用ここまで〕
ドラマ「逃げ恥」には、
野木さんが言われるように、そもそも
わたしたちにとって、仕事とは何か、
結婚とは何かという問題提議というか、
さまざまな問いかけがなされていました。
それは、ドラマだけの世界というよりは、
リアルな世界を生きているわたしたちにも
たしかに届く内容のものだったと感じていて、
もし、そのように
わたしたちに届いているものであったなら、
きっと、ドラマを演じている
ガッキーや源さんにとっても
ドラマを離れた部分で
リアルな私人としての生活に対しても
影響を及ぼさずにいられないもので
あったのではないかと想像されるのです。
このドラマ「逃げ恥」の展開のオモシロさは、
吉本さんの言う3つの幻想領域
「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」
が絶妙なバランスで配置され、
適度に錯綜しているところにあります。
具体的に書くと、
みくりの妄想癖や平匡の劣等感は、
個人幻想領域にあり、
恋愛、結婚というテーマは対幻想領域、
会社や仕事というテーマは共同幻想の領域、
ということになりますが、
恋愛ではなくビジネスから始まり、
雇用主と従業員という関係からなる契約結婚は、
社会的な要素の強いものですから、
一般にいう結婚自体は、対幻想領域にありますが、
共同幻想的な色合いの濃いものとなるわけです。
でも、昨日までの記事で何度も繰り返し書いたとおり、
共同幻想と対幻想は、もともと別次元にあるので、
それを無理やり「同致」させようとすると、
さまざまな軋みや亀裂が生じることに。
その軋みが生じないように工夫する場面が、
第2話の両家顔合わせのシーンにあったので、
前記したことをその話にたとえながら
具体的に書いてみようとおもうんですが、
結婚式を挙げるのは当たり前と考えている
津崎家の両親や森山家の親族を
結婚式を行わないように
いかに説得するかを相談しているとき、
仕事人間の平匡は、
結婚するカップルの約3割が
結婚式を行わないという統計データを
もとにしようと提案します。
そこに、大学+大学院で心理学を学んだみくりは、
「片方がごり押しした印象を与えると、
もう片方が面白くなく感じてしまうので、
統計よりも心理に訴え
〝二人で決めた〟と強調した方が
双方納得するのでは」と提案します。
実際の現場では、みくりの提案したやり方で行われ、
その提案にみくりの伯母・百合の賛成を得て
その場が丸く収まるわけなんですが、まさに
統計データをもとにするという考えが
共同幻想領域のアプローチであるのに対し
〝二人で決めた〟というアプローチが
対幻想的なアプローチと言えるでしょう。
また、このシーンは、
百合さんの存在自体がこのドラマの展開において
とても重要な鍵を握っていることが
感じ取れる場面でもありました。
つまり、伯母という存在は、家族ではないので、
対幻想領域には入らないんですが、
薄い血のつながりがあるので、
共同幻想領域の中でも
対幻想領域にいちばん近いポジションに位置するため、
結果として、対幻想領域と共同幻想領域を
繋ぐような役割を果たすことになるわけです。
たとえば、第6話の始めのほうで、
百合さんが新婚旅行を提案し
みくりと平匡がそれを了解するんですが、
百合が伯母だったからこそ提案できたし、
また、みくりと平匡の二人も、
伯母からの提案だったから受け入れられたのであり、
もし、あの提案が他の人からなされていたら、
不自然な感じが残ったんじゃないかと。
・・・ということでいろいろ書いてきましたが、
TVドラマ『逃げ恥』を
吉本隆明さんの『共同幻想論』で
リフレーミングしながら観る
とは、具体的にどうすることなのか、
すこしは伝わったでしょうか?
結局、吉本さんの説かれた
「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」
という幻想領域の話を概念的に理解できても、
いわゆる一般のアカデミックな心理学や
社会学のフレームを大きく超えていて、
かなり抽象度の高い話でもあり、
それがすぐに現実の世界で
活用できるようにはなりません。
「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」を
目の前に展開する日常の中で
あてはめて見る練習を繰り返さないと、
自分で活用できるものにはならないわけですが、
わたしの場合、ちょうど吉本さんの共同幻想論を
読み解いているタイミングで
ドラマ「逃げ恥」の再放送がはじまり、
それを繰り返し繰り返し見ることで、
結果的にその練習ができたということに
後から気付いたわけなんですが、
それが当たり前のようにできるようになったとき、
ガッキーと源さんはもしかすると近い将来
結婚するんじゃないかという予感が
次第に確信に近いものに変化していったのでした。
以下、この続きはまた明日に。