ガッキーと源さんの結婚を予感していたわけ(その7)
2022/01/30
このテーマもこれで7回目となるので、
そろそろケリを付けなければとおもうのですが、
果たして、そのように上手くいきますか・・・。
blog記事のタイトルを
「ガッキーと源さんの結婚を予感できたわけ」
としてきたとはいえ、
わたし自身に他の人にはないような
特殊な予知能力があるわけでもありません。
よって、そのわけについて
「間違いなくコレだ!」とわかっていて
このblog記事を書いてきたわけではありません・・
・・と、こう書いてしまうと身も蓋も無いと
おもわれてしまうかもしれませんし、
まあ、今更なんですが・・・(^^;)
ただ、自分なりに一番頼りにしているのは、
こちらの記事に書いた
「自分の思考パターンが自覚できて、
人間の観念と事実を混同せず切り離し、
見通せるようになってくると、
未来に何が起きるか、
次第に予感できるようになってくる」
というところなんです。
でも、これだけだと多くの人には
何のことやらサッパリ意味不明!
ではないかとおもいますので、
今日はその辺りを掘り下げて書くことで、
何とか締めくくりたいとおもっています。
ひとことで言い換えると
「現状把握」「現状分析」の大切さ
ということになるんですが、まずは、
このことを見事に喝破され、
端的に言語化されているのでご紹介!
現状を正しく把握できてさえいれば、
一定の将来像が間違いなく想定できる。
過去を正しく理解して、
現在を冷静に見つめて、
その先にある未来を正しく想定する。
寺子屋塾で提供している重要なプログラムのひとつ、
〝未来デザイン考程〟においても、
現状把握局面を
全局面のなかで最も重視していて、
これは確かにそのとおりだと。
また、以前にも
今の自分を見る姿勢の大切さや
時間の捉え方については書いているので
現状把握が大事という話が
あまりピンと来ない人は、きぼう新聞に載った
わたしへのインタビュー記事の第5回を紹介した
こちらの記事などを読んでみてください。
もちろん、現状把握が大事といっても、
わたしは、ガッキーや源さんとは
テレビの画面を通してでしか会ってませんし、
テレビやラジオ、本や雑誌、ネットなど
メディアを通して発信された
情報をたよりに想像するしかないので、
一次情報に触れることはほとんどなく、
そのうちのどこまでが事実かどうかを
確認する術をもっていないんですが・・(^^;)
たとえば、
源さんは、『いのちの車窓から』に収められている
「新垣結衣という人」というエッセイに
ガッキーのことを次のように書いています。
彼女は、撮影の合間の待ちの時間も、
ただ普通にちょこんと座り、静かにしている。
(中略)おとなしいけれど、
現場で面白い話が生まれれば一緒に笑うし、
話しかけると気さくに話してくれる。
(中略)
来る日も来る日も撮影があり、
夫婦という設定から二人だけのシーンが多く、
いつも一緒にいるけれど、
一日に一回はこの人は素敵だと思う場面がある。
源さんの飾らない心情がじんわりと響いてくる
イイ文章ですよね〜
ちなみに、『いのちの車窓から』は
2021年の井上淳之典・読書ベスト20にも
挙げたんですが、本当に気に入ってる一冊で、
ちょうど今月1/21に文庫化されたので、
まだ読んでない人は、この機会にぜひ!
また、ガッキーは、
TBSの逃げ恥websiteに掲載されている
こちらのインタビュー記事を筆頭に
源さんについてコメントしているものが
いくつかあるんですが、
わたしが注目したのは、(その3)で紹介した
野木亜紀子さんが向田邦子賞を受賞された際の
次のお祝いコメントです。
わたしは4作品、もう野木さんと
ご一緒しているんですが、
いつも野木さんが書く本に、これから生きていく上で、
こういう風に物事をとらえたらいいのかなとか、
何にでもなれるんだなとか、
希望をいつもいただいているなって思います。
ところで、吉本隆明『共同幻想論』には、
「古事記」や柳田国男「遠野物語」が登場するので、
歴史学や民俗学の本に分類されることも
あるみたいなんですが、
吉本さんという人は、
現在というものを捉える時間軸の幅が
30万年(!)くらいあったみたいなんですね。
だから、過去のことを考えることが
そのまま未来を描くことに
つながっているというか、
いまある国家という共同幻想がけっして
人間にとっての最終形態のものだと
考えられていたわけでなく、
国家というものが解体した後にやってくる
次なる共同幻想について、
『ハイ・イメージ論』『南島論』などでは
未来社会のあり方についても
考察されていたようなんです。
現状が正しく把握できれば、
間違いなく未来が想定できる、と。
それから、昨日の記事で、
吉本隆明『共同幻想論』を理解するポイントは、
〝対幻想〟という関係性の捉え方にあると
書いたんですが、
対幻想とは、つまり二者関係のことであり、
目の前にいる人との間で生まれる
幻想世界ということです。
したがって、具体的には、
自分という人間がもっている
個人的な意志や願望(個人幻想)や、
社会的に定められたルールや常識、
価値があるとされていること(共同幻想)を
一旦脇に置いたところで、
目の前にいる人とちゃんと向き合う。
言いたいコトを引っ込めずにちゃんと表現しつつ
なおかつそれを相手に押しつけず、
相手の意向を確認、了解を得ながら
対話しようとする姿勢を
どこまで大切にできるかなんですが、
ドラマ「逃げ恥」には、
そういうシーンが随所に登場しています。
もちろん、それがあまりに丁寧すぎて、
なかなか二人の関係が縮まらないので、
観ている側からするとあまりにじれったくて
〝ムズキュン〟という新たな言葉を
生み出し流行語にもなったわけですが。笑
たとえば第1話、
クランクインして最初に撮影したのが、
平匡とみくりが、みくりの家に向かう
バスの中のシーンだったらしいんですが、
みくりは、
「同居にあたって夜の生活の方は?」という
ちょっと聞きにくいようなことを
ストレートに聞いて平匡を驚かせ、
あの、スマホを落としそうになって
お手玉のように扱いながら
「大丈夫です。ぼくは〝プロの独身〟なんで」と
ガッツポーズで答えるという、
脚本家の野木さんも唸らせるほどの
名演技(笑)を生み出したわけです。
さらにみくりは、第2話で平匡に、
「〝プロの独身〟って?」と問うんですが、
「端的に言うと〝平穏〟です。
それ以上でもそれ以下でもありません」
と答える平匡・・・
「〝平穏〟?いい響きですね」と応じるみくり・・
このような対話を繰り返している二人は
けっして互いを
わかり合っているわけではなく、
まさに、ディスコミュニケーションなのです。
あと、6年前の秋、
ドラマ「逃げ恥」を放映しているとき、
源さんがパーソナリティを務める
ラジオ番組「オールナイトニッポン」で、
ドラマ「逃げ恥」の中味に直接コメントしている話を
いろいろ聞いたんですが、
なかでも一番興味深かったのは
第7話が放映された直後のタイミングで
第7話の結末部分について、
恋愛をテーマに深く突っ込んで語っていたところで、
以下は、そのハイライト部分を
文字起こししたものです。
少し前までYouTubeにアップされていたんですが、
現在は削除されているようなので、
出典元を確認されたい方は、
こちらのページをご覧ください。
(引用ここから)
ーーーーーーーーー
・・・で、すごく個人的にオモシロイと思ったのは、7話の沼田さんという古田新さん演じる、この方ゲイの役で、平匡が「沼田さんって鋭い人だと思ってました。男性と女性のどっちの視点も持っているから」という台詞があるんですけど、まわりの、それこそ日野さん、藤井隆さん演じる日野さんていう人と、大谷亮平さん演じる風見さんという役、が「いや、違うと思いますよ。沼田さんは、ただ沼田さんなんですよ。ゲイだから、男と女、どっちの感情も持っているわけではないですよ」ってことを、すごくセンシティブな話題をすごく軽やかに脚本に書いてあって、ドラマの中で軽やかに表現されてるんですけど、そこで平匡がすごく反省をするという描写があります。「自分が決めつけられるのは嫌なくせに、どうして人はレッテルを貼ってしまうんでしょう」と。
で、そのなかで、そういう台詞があったあとに、その終わり方ですね。平匡が拒否するというエンディングになったときに、やっぱりみんな怒っている。怒り方が、頂いたメールとか見てると、「男なのに何やってんの?」「女性から申し込まれたそういう誘いを男がなぜ断るか?」と怒ってるんだけど、それって、平匡なりみくりなりがずっと苦しんできた、男に生まれたからというレッテル,女に生まれたからというレッテル、そういうものと全く一緒なんですよね。で、それを(逃げ恥を)見ている人がそういうふうに責めてしまうということが、つまり、平匡とみくりが苦しんで、みんなが苦しんでいるんだけど、前向きに何とか頑張ろうとしているのがこのドラマのすごく素敵なところなんですけど、なぜ、みんながこんなに苦しんでいるか?っていうその、一番大事なところを視聴者が思ってしまうっていうのが、ぼくはすごくこのエンディングの面白いところだなっておもったんです。
で、すごくわかりやすいなと思うのは、男女を反転するだけで、全然怒る気持ちにならない。いままで彼氏がいたことがなくて、そういうこともしたことがない女性に対して、「いいですよ、あなたとならしても」と男が言った時に、感じる感情って全然違うじゃないですか。怒りじゃない。それで拒否しても、まったく怒る気にならない、そりゃしょうがないよねってなる。でも、それが男になっただけで、「お前しっかりしろよ」ってみんなから言われるってことは、それは、いかにみんなが男と女というレッテルに縛られているか?ということの証明なんです。だから、出演者が苦しんでいる理由は、見ている人たちの怒った人たちの心の中にある。
それが、脚本の野木さんがどこまで意識して書かれているか、原作の海野さんがどこまで書かれているか、原作にこのシーンがどこまでそういうふうにあったかは、はっきり憶えていないんですが、どこまで意識されているか分からないですけど、そういうふうになるというのが、すごく、すごくおもしろいドラマだなとぼくは思いました。
本当にただそういうのをまったく無しで見ると、好きという言葉を伝えずに、すこし突っ込んでしまったみくりと、それでもやっぱり35年という期間は長かったという、どっちも悪くない、しょうがないよねっていうことの、ただのちょっとしたすれ違いなんですけど、それがすごく、見てる人が「ウォーっ!」てなってしまうのは、そういうレッテルの仕業なのではないかとぼくはおもったというお話しでございました。
(引用ここまで)
それで、対幻想的関わりということについて、
多少なりともイメージを持って頂く目的で、
ちょっとまえに、寺子屋塾で提供している
参加&体験型プログラムのなかで
もっとも重要な〝インタビューゲーム〟について
こちらの記事で書いたんですが、
未読の方はぜひご覧ください。
このインタビューゲームは、もともと
寺子屋塾が開塾以来ずっと基本教材としている
らくだメソッドの開発者・平井雷太氏が
らくだメソッド指導者養成のために
考案したプログラムです。
ここまで読んでこられた方には、
インタビューゲームには、
表面的な話に終始してしまいがちな
二者間のコミュニケーションに
〝対幻想〟的関わりが生まれやすいような
ルール設定がなされていることが
お判り頂けるんではないかとおもいます。
さて、いよいよ締めくくりは、
冒頭写真で紹介した
白河桃子さんの言葉です。
ドラマ「逃げ恥」の要になる部分を
これ以上分かりやすい言葉はないんじゃないかと
おもわれるくらいに
端的かつ明確に言語化されているので、
わたしなどが付け加えることは
ほとんどないのですが。
これまで7回の記事で書いてきたように、
ドラマ「逃げ恥」には、
吉本隆明『共同幻想論』のモノサシ
ーーー人間社会の本質とその歴史を、
「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」の
関係構造として取り出し表現されたとされる
『共同幻想論』のモノサシからみたときにも、
ナルホドとおもわせてくれるような重要な指針
ーーーこれからの時代の恋愛、結婚を考える上での
重要な指針、ヒントとなるものが表現されていて、
ガッキーと源さんはきっと
ドラマ「逃げ恥」を演じることによって、
ドラマという架空の世界だけでなく、
リアルな現実世界においても
役に立つような人間関係要諦,指針というものを
学ばれたんじゃないか、とおもった次第です。
誰かと生きることを自分で決めたとしても、
その関係の中味は自由にデザインできるといいですね。
みくりと平匡が二人で確認しながら、
だましだましでも、二人でいることが出来るのは、
二人で話し合ってデザインしていくことが
できるからだと思います。ここでどちらかが
「結婚ってこうあるべき」と押しつけたら、
きっとうまく行かない。
誰とどんなふうにシェアするのかを、
自分たちらしくデザインする関係……、
これからはそんなカップルや仲間が
増えるのではないかと思っています。(P.114)
うまくいくコツは、みくりみたいに、しっかりと
「言いたいことを言うこと」です。
それを男性が受け止めてくれたら、
カップルとしてやっていけます。
「逃げ恥」がおしえてくれたのは、
「逃げてもいい」「だましだましでもいい」ということ。
そして、逃げることは恥ずかしくないが、
大切な人を見失っちゃいけないということ……。
「逃げ恥」は、大切なものは何だろうと、
考えさせてくれる物語なのです。(P.196)
ここまでお読み下さった方に
心より御礼申し上げます。<(_ _)><(_ _)><(_ _)>