寺子屋塾

自ら問い、自ら行動する姿勢の大切さ(「論語499章1日1章読解」より)

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自ら問い、自ら行動する姿勢の大切さ(「論語499章1日1章読解」より)

自ら問い、自ら行動する姿勢の大切さ(「論語499章1日1章読解」より)

2022/03/27

日曜は基本的に易経、論語、仏典を中心に

④古典研究関連のカテゴリーの記事を

投稿するようにしています。

 

論語は全部で499章あるんですが、

2019年の元旦から2020年5月13日まで

解説書だけを頼りに自力で1日1章ずつ読んで

Facebookに投稿することを日課としていました。

 

昨年11月の半ば頃

そのことについて書いたふりかえり文を

このblog記事から3回にわたって

ご紹介したことがありますので、

未読の方はそちらをまずご覧ください。

 

いずれは教室の学習メニューに

論語も繰り入れていければと考えているのですが、

とりあえずわたし自身が大事だとおもった章を

少しずつ紹介しています。

 

今日は、孔子が教育者としてのポリシーを語っている

という点においてつながりがあるよう感じた

子罕・第九の23番(通し番号228)と

述而・第七の8番(通し番号155)の2章を

まとめてご紹介。

 

論語はご存知のように、

多くの章が「子曰く」で始まっていて、

弟子たちが師の言葉を書きとめたものですから、

孔子の教育者としてのポリシーということは、

弟子の立場からすれば、それはそのまま

学ぶ者としての心得を述べていることになりますね。

 

コメントの最後のところで、

本章の内容とらくだメソッドとの関連についても

言及しています。

 

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【子罕・第九】228-9-23
[要旨(大意)]
自ら問い、自ら行動しようとしない者は,教育のしようがないと孔子が述べている。

 
[白文]
子曰、法語之言、能無從乎、改之爲貴、巽與之言、能無説乎、繹之爲貴、悦而不繹、從而不改、吾末如之何也已矣。
 
[訓読文]
子曰ク、法語ノ言ハ、能ク從フ無カランヤ、之ヲ改ムルヲ貴シト爲ス、巽與ノ言ハ、能ク説ブ無カランヤ、之ヲ繹ヌルヲ貴シト爲ス、悦ンデ繹ネズ、從フテ改メザル、吾之ヲ如何トモスル末キノミ。
 
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、法語(ほうご)ノ言(げん)ハ、能(よ)ク從(したご)フ無(な)カランヤ、之(これ)ヲ改(あらた)ムルヲ貴(とうと)シト爲(な)ス、巽與(そんよ)ノ言(げん)ハ、能(よ)ク説(よろこ)ブ無(な)カランヤ、之(これ)ヲ繹(たず)ヌルヲ貴(とうと)シト爲(な)ス、悦(よろこ)ンデ繹(たず)ネズ、從(したご)フテ改(あらた)メザル、吾(われ)之(これ)ヲ如何(いかん)トモスル末(な)キノミ。
 
[ひらがな素読文]
しいわく、ほうごのげんは、よくしたがうなからんや、これをあらたむるをとうとしとなす、そんよのげんは、よくよろこぶなからんや、これをたずぬるをとうとしとなす、よろこんでたずねず、したごうてあらためざる、われこれをいかんともするなきのみ。
 
[口語訳文]
先生(孔子)が言われた。「(古典の格言のような)道理を説く言葉は、これに同意しない者はいないだろう。しかし、(ただ同意するだけでなく)その言葉から本当に行動を改められることが大切なのです。優しい言葉であれば、誰もがそれを喜んで受け容れることでしょう。しかし、その(言葉の本当の)意味を尋ねることが大切なのです。喜んで受け容れるだけで、その意味を尋ねようとしない者、その言葉にうわべだけ従って、実際に行動を改めないような者は、わたしにもどうしようもありません。」
 
[井上のコメント]
孔子は伝統主義者でしたから、古典の教説を重視するのは当然のことでしょう。しかし、その古典の言葉を表面的に受容することよりも、その真意を問い、実践することが大切だと考えていたようです。うわべだけ理解したような態度をとっていても、実際の行動や態度に変化がないのなら、それは学んだことにはなっていないのですから。また、この章は、述而第七の8番(通し番号155)とほぼ同じ内容のことを別の角度から書いたものと言えるようにおもったので、その章の内容とわたしのコメントを続けて再録します。

 

 

【述而・第七】155-7-8

[要旨(大意)]
孔子が教育者としての自分の基本姿勢を表明している章。


[白文]
子曰、不憤不啓、不悱不發、擧一偶、不以三隅反、則不復也。
 
[訓読文]
子曰ク、憤ゼズンバ啓セズ、悱セズンバ發セズ、一偶ヲ擧グルニ、三隅ヲ以テ反セズンバ、則チ復セザルナリ。
 
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、憤(ふん)ゼズンバ啓(けい)セズ、悱(ひ)セズンバ発(はつ)セズ、一偶(いちぐう)ヲ挙(あ)グルニ、三隅(さんぐう)ヲ以(もっ)テ反(はん)セズンバ、則(すなわ)チ復(また)セザルナリ。
 
[ひらがな素読文]
しいわく、ふんせずんばけいせず、ひせずんばはっせず、いちぐうをあぐるに、さんぐうをもってはんせずんば、すなわちまたせざるなり。
 
[口語訳文]
先生が言われた。「自ら悩んで突破口を求め、問うのでなければ教えません。言いたいことがあって表現を求めあぐんでいるのでなければ、言い方を教えることはしません。一隅を挙げて説明したときに、三隅を類推して自ら理解しようと反問するのでなければ、それ以上は教えません。」
 
[井上のコメント]
前章に続いてこの章も、教育者としての姿勢について述べたもので、為政第二の15番(通し番号31)「子曰、學而不思則罔、思而不學則殆。(先生が言われた。師から学ぶだけで自分で考えないと、〈いのち〉というものは見えてこない。自分で考えるだけで師から学ばなければ、〈いのち〉を過つ危険がある)」を別の視点から書いているとも言えるでしょう。

「憤する」は、いきどおることではなく、心がいっぱいになってふくれあがるという意味で、そのように悩んでいるときに、人ははじめて「啓(ひら)く」ものであること。また、「悱(ひ)する」は、言いたいことが口に出かかっているのに出ないことで、そうなってはじめて人は「発する」ものであること――つまり、学問というものは、「学んで問う」という言葉のとおり、学ぶ側の人間が問うことから始まるわけです。教えることが先ではなく、学ぶ人自身の内発的動機づけが必須で、自ら問題意識をもっていない者に対し、問題の解き方や答えばかりを教えたところで、学習コンテンツの注入やスキルの押し売りをしているにすぎないわけで、それを学ぶ人間が自ら発見できるように啓発し引き出すのが教育者の役目であるというのが、孔子の基本的姿勢といってよいでしょう。
あと、「不悱不發」については――これは、吉本隆明さんが考えられたことなんですが、言葉について〝自己表出〟と〝指示表出〟という2つの概念からとらえることの重要さにもつながるように感じました。なぜなら、言葉にとっては、幹であり根っこの部分にあたる〝自己表出〟があくまで主ですから、自己表出の蓄積がない人に対し、枝葉でしかない指示表出としてのコミュニケーション技術をどんなに教えたところで仕方がないからです。
さいごに余談ですが、わたし自身が寺子屋塾で開塾以来ずっと基本教材としてきたらくだメソッド(算数・数学、国語、英語3教科のプリント教材)は、ルールに基づいてただやりさえすれば、自ずとできるようになってしまうので、学習コンテンツを教えることを敢えて主目的にしていません・・・というか、目的にする必要がないのです。つまり、主役は学習者であるわけですから、学ぶ人間自身が結局のところどうしたいのか、自分の本心と向き合って、内発的動機づけを自ら発見できるかどうかを大事にしているわけです。この章で孔子が言おうとしている内容についても、口語訳文に「教えません」という言葉を3度使っていて、わたしが実践している「教えない教育」と大きく重なるように感じました。

 

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