自分で採点することの大切さ
2022/04/23
昨日書いた記事では、
らくだメソッドは他の教材とどう違うのかについて
開発された平井雷太さんの著書『らくだ学習法』に
書かれている内容を一部紹介しながら書いたんですが、
今日もその続きです。
まずは、昨日書いた記事の内容を
ざっくりとふりかえってみましょう。
らくだメソッドでは、
〝セルフラーニング力〟が身につけられることに
主眼を置いていますから、
どの教材を、どれだけ学習するかについて、
指導者から提案することはあっても、
指導者と学習者が相互に相談し、
最終的には学習者自身が決められるようにしています。
つまり、どの教材を、どれだけ学習するかを
指導者がコントロールし管理するのでなく、
学習者が自分自身で
学習について自己管理できるようになることが
セルフラーニング力の育成につながると
考えているわけです。
そして、そのためのツールとして、
①解答が裏に印刷されたプリント教材
②時間を計るストップウォッチ
③結果を記入する学習記録表
の3点が用意され、
プリント毎に設定されているめやす時間や、
「ミス3個以内、めやす時間台でできれば合格」という
ルールなども含め、これらを総称して
〝らくだメソッド〟と呼んでいるわけです。
つまり、学習内容ができるようになることだけでなく、
何ができて、何ができないかというような
自分の学習についての情報を自己管理できるように、
学習者自身が手に入れられるようになることを
大切にしてきました。
そのため、プリント教材も、
単に易しい問題から難しい問題へと
スモールステップになっているだけでなく、
「単元別」「要素別」に組み立てられているため、
番号の順番に解いていくだけで、
自分が何につまずいているのかが
歴然とわかるようになっているわけです。
よく、勉強ができるとかできないとか言いますが、
「勉強のできない子ども」は存在しません。
なぜなら、「勉強ができない」子どもとは、
正確に言うなら、ただまわりから勉強ができないと
おもわされているだけなのであって、
そのように、できないとおもわされている子どもは、
「自分が何につまずいているのか」が
わからなくなっているから、
自分がどうしたらいいのかがわからず、
結果として、勉強ができなくなっているだけなので。
でも、そういう子どもに対して、
まわりの大人が無理矢理教えようとしても、
ますます勉強が嫌いになるばかりでしょう。
よって、まず必要なことは、
その子自身が「自分でやってみよう」おもえるように、
自分が何ができて、何ができないのか、
その子が自分についての〝情報〟を
手に入れられるようにすることではないかと。
自分が何につまずいているのかが明確になって
自分についての〝情報〟が手に入れば、
あとは、そのできないところをやるだけですから、
こうしなさい、ああしなさいと、
いちいち先生から指示、命令されなくても
自分で動けるはずですし、
先生の役割は、その子が安心して
自己課題に取り組めるように見守ることです。
もちろん、ジャン・ギトンの名言を紹介した
こちらの記事でも触れたように、
自分で丸ツケを正しくできるようになることは
易しい課題ではありません。
でも、難しいからといって
採点を先生に任せてしまうよりは、
たとえ、最初から正しくできなくても、
自分でやってみる体験を重ねていくこと自体が
とても大切なプロセスであって、
学習者が自分についての
情報を手に入れられるということでも、
それだけの価値あるチャレンジだとおもうのです。
それで、今日はそのことに触れている、
平井雷太さんの文章をご紹介することにしました。
平井さんが主宰されるすくーるらくだの塾生向けに
1991年12月15日に発行された『らくだ通信』の
後半部分の抜粋です(『らくだのひとり歩き』所収)。
(ここから引用)
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つい先日、子どもが採点してきたプリントを見ると、
ミスが3個と書いてあります。
私がちょっと見ただけで、それ以外にもミスが
いくつもありました。
こんなことで腹がたつわけもありませんが、
そこでさり気なく、その子に次のように言いました。
「この採点おかしいよ。ほら、この問題もこれも
答えが違っているのに丸がついている。
もう一度よくみて採点してごらん」。
しかし、彼は私が指摘した問題以外には絶対に
採点ミスはないというのです。
そこで私が彼の目の前で確かめてみるとミスは18個。
これは一体何なのでしょう。しかし、彼に
採点をごまかしている意識は全然ないのですから、
悪びれもしません。1問1問答えを見ながら、
真剣に〇をつけての結果でした。
そこで次のようなことをしてみました。
答えが268であるにもかかわらず、266と書いて
丸をつけているところを示して、
「この答えとこれは同じ答え?」と聞くと、
「うん、同じ」と答えます。
「それなら、裏面の答えを読んでから、
自分の書いた答えを読んでごらん」と言うと、
そこで初めて気がついて
「あ、本当だ。間違えてた」と、言うのです。
子どもとこんなやりとりをしているうちに、
私自身が恥ずかしくなってきました。
長い間、教室をやっていながら、
子どもが間違っている答えに〇をつけているのは、
ついうっかりの勘違い以外は「ズルかもしれない」と
思っていたのですが、そうではない子どもが
いることを、初めてこの時意識したのです。
もちろん、自分の間違いを認めたくないから、
間違っていても〇をつけてしまったり、
直すのが面倒だから、早く遊びに行きたいからと、
ササッと見て、〇をつけていた子もいたでしょう。
しかし、そんな子ばかりでなく、
間違っていても合っているように見えて、
〇をつけていた場合もあったことに、
この時初めて気付かされたのでした。
そう思って思い返してみると、AとBを比べて、
その二つが同じかどうかを
確認する採点という作業には、人が育っていく上で
非常に重要な要素が含まれているように
思えてきたのです。
テストで時間が余ると、自分のやったプリントを
もう一度見直して、間違いを見つけることをしますが、
これは大変難しい作業です。
自分がやったものを、同じ目の自分が追うだけでは、
自分の間違いは中々発見できません。
今までの自分と違う
もう一人の自分の目で眺めてみなければ、
間違えている箇所には
容易に気付くことができないからです。
その他にも「自分のやった本当の結果を見たくない」
という思いや、
また、「自分のやったことはあっていてほしい」
という願いが心のどこかにあると、間違っていても、
それが間違いに見えてこないということが
起こるのでしょう。
つまり、深層意識の中にある自分の思い込みや願いが
本当の現実を見る目を曇らせるというわけです。
これは文章を書く時でも、同じです。
自分で書いて「これはすごい出来ばえだ。
書き直しようがない」と思ってしまうと、
これを書き換えることは非常に困難です。
しかし、そんな文章でも2〜3日経って、
自分の文章を人の文章だと思って、
少し距離をおいて読み返してみると
「なんだ、この下手な文章は。こう書き換えれば、
もっとよくなる」と、文章を書き直して
比較的容易に質を高めていくことが可能です。
つまり、これをプリント学習に当てはめると
「答えを見ずに、自分の解いた問題を自分で見直して、
どこがまずいか、その間違いに自分で気付いて
いくこと」になるのではないかと思ったのでした。
しかし、現実にはすくーるらくだに来た最初から、
そんなことができる子どもは中々いません。
すくーるらくだに来てすぐの子どもは、
採点をして間違っているところがあると、
ほぼ全員の子どもが、
その箇所を消しゴムできれいに消して、
もう一度やり直します。
そうでない場合は、
どこが間違えたかその途中の過程を点検せず、
答えだけを答えを見ながら写して、
それで間違いを直したと思っているのです。
「なぜ自分は間違えてしまったのか」
「自分のやり方の一体どこがいけなかったのか」 と、
自分がやった計算のプロセスをじっくり眺めて、
間違えたところだけを直す子どもはほとんどいません。
なぜこのように子どもは、
自分の「ミス」の処理をするのでしょうか。
何が原因で間違えたのか、
そんな箇所を探すのはめんどうくさいと、
単にそれだけの理由だけでなく、
これは子どもの「〇好き」にも
原因があるように思えるのでした。
途中のプロセスには興味がなく、
やった結果が〇か×か ...。
しかし、×の現実は見たくない。だから、
すべてを消して、すべてを〇にしたくなるのでしょう。
そんなことを考えながら、
すくーるらくだで行っている一連の流れ
(採点する→間違えたところだけを赤で直す→
記録表に記入する)を考えると、
セルフラーニングの目指しているものは
「見直し能力(=答えを見ないで自分の間違いを
発見する能力・自己チェック能力)を育成すること」
ではないかとさえ、思うようになりました。
しかし、それはそう簡単なことではありません。
「あなたの文章はここがおかしいから、
もっとこう書き直した方がいい」と、
人から指摘されても、
自分の文章に×をつけたくない人ほど、
そんな声に素直に耳を傾けることはできません。
「そんな人」と、「答えを見ても、
間違っている答えが〇に見えてしまう子ども」とが
重なりました。
ですから、自分で自分の問題に気付き、
自分で自分のプリントに×をつけることができれば、
それは次への飛躍につながることになるのです。
そして、自分の間違いを直視して、
何が原因かを探り出し、自分で直していく。
そんな意味からも、自己採点するという作業は、
セルフラーニングを可能にしていく上でも、
なくてはならない重要な作業のように思えるのでした。
この続きはまた明日に。