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〝不自由〟の中に〝自由〟あり(つぶやき考現学 No.119)

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〝不自由〟の中に〝自由〟あり(つぶやき考現学 No.119)

〝不自由〟の中に〝自由〟あり(つぶやき考現学 No.119)

2022/05/25

人間は、おもしろいもので、
自分で気がつかないうちに、
いつのまにか不自由を
自分のまわりに
つくりだしてしまうんですよね。
 
そう、自分で〝自由〟に
好きなように
〝不自由〟をつくっている・・笑
 
そもそも、わたしたちの身体自体が
時間的にも空間的にも
制約のある不自由なものですし、
不自由な身体があるからこそ、
いろんなことを感じられるわけですから、
その不自由さの自覚のないところに、
そもそも自由など存在しないとも
言えるようにおもうんです。
 
つまり「自由」と「不自由」との関係は

表裏一体というか、
〝入れ子構造〟のようなもので、
逆説的に聞こえるかもしれませんが、
そうしたプロセスにおいて、
不自由さの中にしかないような自由が
自分で新たに見つけられれば、
結果オーライというか
何ら問題はないわけで。
 
ただ、自分で体験することなく、
大脳で言葉を操っているだけでは
堂々巡りを繰り返すだけですし、
「自由」と「不自由」の境目に
自ら気づくまでは、
気のすむまで、
好きなだけ不自由さをつくれば
いいんじゃないでしょうか。
 
結局のところ人生、自作自演というか、
どうせ「自分」という役は
降りられないのですから。
 
もちろん、その
「自分」があるというのも錯覚で
「自分」っていう役というのも
その役自体に本質があるわけでなく、
役というよりはむしろ、
舞台装置みたいなものって言った方が
わかりやすいかもしれません。
 
また、「自由」が感じられるかどうかは、
自分の気持ちをごまかさず、
身体の声を素直に聞けるかどうかが大事で、
だれもが共有できる客観的事実と、
個別に異なる観念や解釈を
区別しようとする姿勢があるかどうかが
最低条件として必要ということは
言えるでしょう。
 
そして、そういう風に仕組まれているというか
そのからくり自体に気づくかどうかは、
「問う力」や「観る力」の問題でもあるのですが、
観ているのは、いま、ここに生きている
自分ではないというか、
観ている主体者と、観られている対象者が
分離した状態のなかでは、
どんなに一所懸命観察しようとしても、
思考の枠を越えることはできないでしょうから。
 
つまり、何をどのように観るかについては、
個別に異なるため言葉では説明できず、
しかも、「頑張らない、目指さない、
目標を限定しない」を指針にして
各々が自分に合ったやり方を工夫する必要があり、
簡単には言い表せないんです。
 
よって、日常の中でくりかえし鍛錬しながら
自ら体験的につかむしかないわけですが、
何かを観ている自分という主体が
実在しているとおもっていたこと自体が
幻想でしかないと見抜ければ
そこから先はまったく異なった世界が
目の前に開けていくことでしょう。(2019.7.10)

※井上淳之典のつぶやき考現学 No.119


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