中庸之爲德也(「論語499章1日1章読解」より)
2022/07/10
日曜は古典研究カテゴリーの記事を書いていて、
易経や仏典、論語などを採りあげているんですが、
今日は論語です。
2019年の元旦から翌年5月13日まで約1年半の間、
全部で499章ある論語を1日に1章ずつ読んで
その内容をfacebookに投稿することを
日課としていました。
そのことについて書いたふりかえり文を
昨年11月半ば頃に3回にわたって
ご紹介したことがありますので、
未読の方は次の記事をまずご覧ください。
こちらのblogでは、
論語499章1日1章読解の中から
わたしが個人的に大事だとおもう章を
少しずつ紹介しているんですが、
今日は「中庸」をテーマに書かれた
雍也・第六の27番(通し番号146)の読解を
以下紹介します。
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【雍也・第六】146-6-27
[要旨(大意)]
孔子が中庸の徳を高く評価しながら、そうした徳が社会の人々から失われて久しいと述懐している章。
[白文]
子曰、中庸之爲德也、其至矣乎、民鮮久矣。
[訓読文]
子曰ク、中庸ノ德タルヤ、其レ至レルカ、民鮮ナキコト久シ。
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、中庸(ちゅうよう)ノ德(とく)タルヤ、其(そ)レ至(いた)レルカ、民(たみ)鮮(すく)ナキコト久シ。
[ひらがな素読文]
しいわく、ちゅうようのとくたるや、それいたれるか、たみすくなきことひさし。
[口語訳文]
先生が言われた。「中庸の徳は、至高の徳であるな。しかし、人民に中庸の徳が少なくなってから、随分と長い時が流れたものだ。」
[井上のコメント]
この章のテーマは「中庸」です。まず前提として、ここで言われている中庸が、どういう状態かを理解しておく必要があるでしょう。「中庸」というと、2つの異なる点の真ん中というか、両極にあるものを足して割った平均値といったイメージで捉えている人も少なくないかもしれませんが、ここで孔子の言わんとする中庸は、そうではないようにおもうからです。中庸の「中」は「中心」「中枢」の意、中庸の「庸」は、「あたりまえ」「常なるもの」「ふつう」の意と捉えられますが、たとえば、吉川幸次郎は、中庸を「もっともすぐれた常識」と説明しています。
また、この章については、「中庸の徳が社会の人々から失われたことを嘆いている」という解釈もすくなくありません。孔子に、そうした中庸の徳が失われていることを残念におもう気持ちはあったかもしれませんが、だからといって「中庸をみんなで目指しましょう」と言いたいわけではなく、「嘆いている」という表現はちょっと違うのではないかと。
朱子は、中庸を「不偏不倚(ふへんふい)、過不及(かふきゅう)なし」(何事にも偏らないでしかも何物にも依存しない、過ぎもせず不足もせず)と注釈したようですが、そもそも中庸な状態といっても、両極や全体がわかっていなければ、何が中庸であるかが解ろうはずがなく、また、何も実践せずしていきなり両極や全体を把握するなんてことは、神様でもない限りできない芸当でしょう。中庸というのは、あくまで結果として実現された状態を言い、それを意図的、意識的に目指すことはできない・・・いや、中庸のみならず、そもそも道徳というのは、人間の外部に言語などで明確に表現できて、目標として設定し得る理想などではないようにおもうからです。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、そもそも〝中庸〟という概念の本質はどこにあるのでしょうか。それを前記した「あたりまえ」「常なるもの」「ふつう」「もっともすぐれた常識」というような言葉をヒントに導き出すのは難しいかもしれません、でも、もし「真ん中」という概念が、「端っこ」が存在することを前提に、それと区別して表現しようとするものであるなら、結局のところ善悪、上下、左右というような言葉と同じように、対の概念として表現されたものと何ら変わらないのではないか。つまり、中庸についてアタマで考えようとする限り、かならずこうした対の概念に行き着いてしまうわけです。
よって、中庸の本質については、禅のコトバでいうなら〝不立文字〟であって、表現することは易しくないのですが、敢えて言語化するなら、対の概念や何かと何かを区別しようとする相対意識そのものから脱した世界というより術が無く、その答は実践の中にしかないわけですから。結局のところ、人間はみな偏りをもっていることや依存し合っていること、過不足はどんな場合においても必ず生じてしまうものであることに対して一人ひとりが自覚的であろうとするしかなく、そうした姿勢にもとづく実践が結果的に中庸の徳をもたらすということが、孔子の言いたいことなのではないかとおもったのですが、いかがでしょうか。