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「ふりかえり」と「反省」は似て非なること(つぶやき考現学 No.75)

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「ふりかえり」と「反省」は似て非なること(つぶやき考現学 No.75)

「ふりかえり」と「反省」は似て非なること(つぶやき考現学 No.75)

2022/07/27

あの・・〝ふりかえり〟っていうのは、

過去をおもいだしたり、

過去のことを良し悪しで評価したり

解釈したりすることじゃないんですよ。

 

反省っていうとだいたいは、

ここが良かったとかあれはダメだったとか

現象を解釈し、その良し悪しを言って、

悪かったことへの改善点を見出すことだと

おもってる人も少なくないでしょうが、

わたしの言う〝ふりかえり〟は、

「反省」とは似て非なるものなんです。

 

なぜなら、良し悪しを評価するということは、

その良し悪しを判断した時からその先は、

たいてい、対象となっているものを

観察し続けようとすること自体を

止めてしまっていませんか?

 

また、自分の眼で、

自分の眼をじかに見ようとするのは、

原理的に無理なことですよね?

 

自分っていうひとりの人間なのに、

その自分が、観察者となって、

被観察者として自分を対象に観ようとすることには

たいてい分裂や矛盾が生じてしまうんです。

 

矛盾ってたとえば、人間だれしも、

「なんて自分はしょぼいヤツだ!」って

おもって落ち込むことがあるでしょうが、

その、しょぼいヤツだと見てる自分と

同じ自分の〝眼〟や〝判断〟については

正しい(=しょぼくない)と

疑っていないこと自体オカシイわけで。

 

つまり、自分が観ているつもりの

自分の像というのは、

大脳思考が生み出すトリックというか、

たいていは想像の産物や先入観、

おもいこみなどが混ざってしまうんです。

 

どれだけ精密に観察しているつもりでも、

じつは既にいまの自分ではなく

タイミング的に遅れた過去の残像であって、

たいていは歪んでしまっているか、

〝雨の降る日は天気が悪い〟というような

トートロジー(同語反復)に陥っていることに

自分で気がついていないんです。

 

視座をいま、ここ以外の時間、場所に置かなければ、

いま、ここにいる自分を

観ることなんてできません。

 

したがって、ふりかえりとは、

過去の自分を観察することだと

おもうかもしれませんが、

時間を過去に戻すことはできず、

その過去の自分を観察している自分がいるのは

〝いま〟であって過去ではないのです。

 

過去の事実を事実として

〝いま〟の自分がそのまま観ようとすること、

これを〝ふりかえり〟と考えているので、

「反省」という言葉と混同しないように

使い分けようとしているわけです。

 

でも、こんな使い分けなどしなくても

観察する者と観察される者との間に

時間や距離という隔たりがないことに

気づきさえすれば、

そこには、評価や解釈、葛藤や分離のない

それまでとはまったくちがう観察という行為が

きっと立ち現れることでしょう。(2017.5.23)


※井上淳之典のつぶやき考現学 No.75

COMMENT:5年前に書いた詞ですが、

後半に少し気になる箇所がありリライトしてみました。

 

主旨としては「観察力」がテーマで、

7/18に書いた

米光一成さんの名言を紹介した記事と重なるので、

わかりにくいとおもわれた方は、
その記事を読みなおしてみてください。

 

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