新型コロナ騒動からわたしが学んだこと
2022/08/30
火曜は生活デザイン・ヘルス関連の話題を
投稿しています。
こちらの記事などを見ると
イギリスや北欧などヨーロッパ諸国では
半年前の2月頃から新型コロナ感染症に対する
様々な規制を撤廃し始めていて、
2019年以前の社会が戻りつつあるようだと
で報道されていますね。
先般NHK-BSプレミアムで放映された
ベルリンフィルハーモニーの
観ていたんですが、演奏者だけでなく
観客でマスクをしている人はほぼ映ってませんでした。
最近イギリスやフランスでは、急速な観光需要回復に
人材確保が追いつかないという報道も
こちらの記事に書かれていたんですが、
今や世界で最も感染者が多い国となった日本が、
外国人の入国を1日2万人までに制限する水際対策を
いまだに続けているという、ちぐはぐな政策がとられ、
世界の趨勢から取り残されつつあるようです。
とはいえ、この2年半の新型コロナウィルス騒動から
わたし自身が学んだことは、
とても大きなものがありました。
とにかく、何より特筆すべきことは、
昨年春以後のわたしの食生活が
大きく一変してしまったことで、
それまでの自分自身の食というもののとらえ方を
根本から大きく見直すことになったのは、
コロナ騒動がなければ、あり得なかったからです。
そもそも感染症が
どういうメカニズムで引き起こされるのか、
感染症とは何なのか、
それまでの自分の理解が曖昧なところがあり、
病の本質をしっかり把握できていなかったことが
はっきり露呈したこともそうです。
とはいえ、これはあまりに大きなテーマなので、
その全体像を読んだ方の多くにわかるように
具体的にとなると、
1回分の記事で書ける分量内では、
とてもおさまりそうにないんですが・・・
たとえば、昨日投稿した「今日の名言」では、
場について研究されている清水博さんの言葉をご紹介し、
そのコメントとして次のように書きました。
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・・このように、原因と結果を取り違えてしまうのは、
結局のところ、人間の身体というものに対して、
目には見えない〝生命場〟という場の存在に
多くの医師、科学者が気づいていないためなのです。
「善玉菌」「悪玉菌」という言葉も聞くんですが、
細菌に絶対的な善悪が存在するのではなく、
同じ細菌が、場によって善にも悪にもなるわけです。
つまり、健康な身体にがん細胞を注入しても、
がんはできず、
病的な身体に正常な細胞を注入すると、
その細胞ががん化していくので、
がん細胞によってがんができるのではありません。
同じように、細菌やウィルスだけが原因で
感染症が引き起こされるわけではなく、
宿主の身体という〝場〟が健康的か病的かで
感染するかしないかが決まるというところが、
まだ、現代の西洋医学では解明されていない
死角、盲点になっていると言えるでしょう。
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他でもない自分の書いた文章なんですが、
こうして読み返してみながらでも、結局のところ
「病気って何だろう?」という問いが浮かびます。
「教えない教育・治さない医療」で山下剛さんが
「病気というものはない」と仰っていた言葉の意味が、
一段深く理解できるようになった気がしました。
この世に感染症という〝病気〟が存在しているのは、
あくまで人間のアタマの観念としてであって、
そのように病名を名づける医者と
その病名を受け取る患者がいるという関係はあっても、
病気そのものが実在しているわけではありません。
この「存在」と「実在」の違い、わかりますか?
結局のところ、健康的な〝場〟と病的な〝場〟を
区別しているモノは何かということなんですね。
細菌やウィルスなどは、病気を引き起こす
ひとつの誘因にすぎず、真の原因は
宿主の身体という〝場〟の側にあると
長年考えていたんですが、
細菌やウィルスなどが病気を引き起こしている
というのも、言ってみればひとつの見方にすぎず、
この見方もまた、もしかすると、
原因と結果の取り違えなのかもしれません。
火事の現場に消防自動車が居るからといって、
その消防自動車が火事を
引き起こしたわけではないというたとえ話を
こちらの記事に書きましたが、
細菌やウィルスが体内から見つかったといっても、
それは病気になった結果として
身体から産み出されたものなのかもしれず、
細菌やウィルスが病気を起こしていると
ハッキリ証明されたわけではないのですから。
西洋医学の基本的な考え方というのは、
自分の身体の外側に、病を引き起こすような敵が
存在すると想定することで成り立っているので、
よって、その敵を撲滅することが治療であり、
ワクチンや予防接種、消毒といったやり方や、
公衆衛生などの考え方も
そこから派生的に生まれていったわけです。
結局のところ、西洋医学の考え方は、
18世紀から19世紀にかけて
ヨーロッパ諸国がしのぎを削って
アジアやアフリカ諸国を植民地化していった
帝国主義的な政策にとっても都合がよかったんですね。
また、日本は明治維新以後に西洋医学が輸入され
そのやり方が医療の中心となり、
これで150年やり続けてきて
社会のしくみになっているので、
それが簡単に大きく覆るようなことは
しばらくの間はまず起こらないとおもいます。
でも、科学において、どんな考え方や手法も、
あくまで一つの仮説にすぎなくて、
多数派だからといってそれが
100%正しいという保証はどこにもありません。
同じように、わたしがこうして書いていることも、
当然これが正しいという保証なんてどこにもなく、
ひとつの見方であり、仮説にすぎないので、
他人の書くことや言うことを
そのまま鵜呑みにするのではなく、
自分のアタマで考えて判断することが
何よりも大事ではないかとおもうわけです。
たとえば、マスクやワクチンについては、
大前提として個体差のある問題ではあるんですが、
わたし自身の見解について申し上げれば、
得られるメリットよりも、生じるデメリットの方が
はるかに大きいと考えているので
今後もワクチンは打ちませんし、
マスクも必要を感じる場所でしかしません。
でも、それはわたしの単なる個人的な見解にすぎず、
そのことを人に向かって主張したいわけではなく、
反ワクチン主義、反マスク主義を
唱えたいわけではないのです。
そもそも、マスクつけるべきか外すべきかで
議論したり対立したりすること自体ナンセンスで、
ワクチンもマスクも、したい人がすればよく、
もし、したくないのに
無理に強要されるようなことがあれば、
それは間違っているんじゃないかと。
日本では、マスクをすることも
ワクチンを接種することも
法律で義務づけられているわけではありませんから
いずれについても、していないからという理由で
罰せられることはありません。
でも、みんながしているからという理由だけで
マスクをする、ワクチンを打つというのなら、
結局それは、自分の考えを放棄して
まわりにただ同調しているだけですから、
後々になって何か問題が生じたときにも、
その結果に対して自分で引き受けられずに、
何かのせいにするだけでしょうから、
それはナンセンスじゃないかとおもうわけです。
いままでに何人かの塾生から
「ワクチンについてどう考えますか?」と
相談をうけたことがあります。
たとえば、コロナに罹るのが怖いという理由で
ワクチンを打つのと、
ワクチンの副反応が怖いからという理由で
ワクチンを打たないのとでは、
全く正反対の行動になるんですが、
恐怖に感じる対象物が異なっているだけで、
自分の外側に恐怖の対象物が存在すると見なす
思考回路やメンタリティは全く同じなんですね。
そういう意味で言うと、
こちらの記事で山下剛さんがおっしゃってますが、
それぞれの意識レベルにあったものを
ちゃんと選択しているんですよ。
だから、それぞれに
自分が大事にしたいものが異なって当然だし、
その価値観、世界観に基づいて
意志決定しているわけですから、
そのうちのどれかだけが
正解ということはありません。
この記事の最初の方にも書いたんですが、
そもそも感染症とはどんな病気であって、
ワクチンがどういう経緯で生まれたのか?
そもそも病気とは何なのか?
というような原理的な問いは、
自分自身で大きな壁に突き当たらないない限りは
生まれないものなんですよ。
わたし自身にしても16歳のときの病気をして、
結局、日常の食べ物が大事なんだと気づくまで
7年もかかってしまいましたし、
わたしの場合、こうした問題については
40年以上にわたってずっと考え続けていて、
わたしなりに立てた仮説を自分の身体で検証し、
一つひとつ塗り替えながらやってきましたから、
だれもがすぐわたしと同じスタンスに
立てるようになるとはおもっていません。
だから、現時点でたどり着いている
わたしの見解、仮説を話すことはできても
それが正解かどうかはわからないので、
何度も繰り返すようですが、
わたしの見解をそのまま鵜呑みにするのでなく、
自分の中にどんな問いがあるのかを自覚して、
自分で考えて自分で決めることが
何より大事だとおもうんですね。
「押しつけない、強制しない、命令しない」という
らくだメソッド指導者としてのわたしのスタンスは、
この問題においてもまったく同じなんです。
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