平田オリザ『ディベートとダイアローグのちがいは?』(今日の名言・その38)
2022/09/26
ディベートは、話す前と後で
※平田オリザ(1962年東京生まれの劇作家、演出家)のことば |
今日の名言は、哲学者の鷲田清一さんが
朝日新聞に連載されている「折々のことば」からで、
オリザさんのこの言葉は、鷲田さんから
ディベート(討論)とダイアローグ(対話)の
違いについて問われた際に、
両者を対比的に語っている文脈ということもあり、
オリザさんは
「考えが変わらなければ意味がない」と結んでいます。
でも、対話は考えを変えることを目的に為される
という見方もまた一面的で、
すべての対話がそうとは言えないでしょうし、
やりとりすること自体が目的の対話というのも
あって良いんじゃないでしょうか。
ところで、
ガッキーと源さんが結婚するんじゃないかと
わたしがなぜ一昨年の秋ごろから予感していたか
という記事を昨年11月から今年の1月にかけて
7回にわたって書いていたとき、
鷲田清一さんが書かれた「対話の可能性」という詞を
次の記事の後半部で紹介したことがありました。
そこにも書かれているんですが、
対話は互いにわかりあおうとして行われます。
けれども、互いにわかりあうというのは、
相手と同じ考え、同じ気持ちになることとは違います。
そもそも相手と同じ考え、同じ気持ちになるなんて
無理なことなのに、それを望んでしまうのが
人間の悲しいサガというものなのでしょうが、
「わかり合う」という言葉の曖昧さも手伝って、
そう勘違いしてしまう人は
少なくないのではないでしょうか。
もともと、対話すればわかりあえるという
保証などありませんし、
現実には、語りあえば語りあうほど
他者と自分との違いがより繊細に
分かるようになることも少なくないでしょう。
じゃぁ、わかりあうって何なんでしょう?
どういう状態になれたら、
わかりあえたって言ってよいのでしょうか。
これについては、blog記事1回では書けないほど
大きなテーマなので、
またの機会に言及しようとおもいますが、
オリザさんが2012年に書かれた本のタイトルが
でしたので、気になった方は読んでみてください。
さて話を対話に戻しますが、鷲田さんは対話について、
折々のことばの記事では、
「共通の足場をもたない者のあいだで試みられる。
呼びかけと応えの愉しい交換」であり、
「吐露と聴取の控えめな交換」であり、
「埋まらない溝を思い知らされた後の
沈黙の交換でもある」と述べ
「対話は討論よりおそらくはるかに難しい」と
結んでいました。
たしかに、互いが自分の主張を言い張る討論では
溝はなかなか埋まらないことでしょう。
でも、対話と言いつつ、対話しているつもりでいて、
いつのまにか、何が正しいか、どうすべきかという
討論、議論になってしまうこともあり、
気をつけなければいけませんね。
あと、最後にオリザさんの新刊書をご紹介。
8/30にNHK出版「学びのきほん」シリーズから、
『ともに生きるための演劇』が出版されました。
ちょうど今日、教室にその本が届いたところなので、
まだ読めていないんですが、
第3章の見出しには「対話の体力」を鍛えるとあり、
読むのが楽しみになりました。
※冒頭の画像はこちらのページより拝借しました