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塾生・本田信英さんのらくだメソッド7年ふりかえり文

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塾生・本田信英さんのらくだメソッド7年ふりかえり文

塾生・本田信英さんのらくだメソッド7年ふりかえり文

2022/10/22

土曜はらくだメソッド関連、塾生関連の記事を

投稿しています。

 

中村教室を開室して間もない2015年秋から

寺子屋塾で学んでいる本田信英さんが、

らくだメソッドの高校教材まで

すべてを終了したことを機に

7年間のふりかえり文を書いていましたので、

今日のblogではそれをご紹介することにしました。

 

全体の文字数が8000字を超える大作で、

3回に分けて書かれています。

 

(引用ここから)

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7年続けてみて、「学ぶことについて」考えてみる
本田信英 2022年10月15〜17日


7年という歳月をかけて、1つのことをやり続けてきました。紆余曲折ありましたが、自分が1番最初に目指したゴールには辿り着きました。
これまで折に触れて、振り返りを書いてきました。今回、その最終稿を書きたいと思います。

僕がやってきたらくだメソッドについてはこちら↓
話題が幅広くまた長くなるため、「学ぶことについて」「続けることについて」「全体の総括」の3回に分けます。


●1回目は「学ぶことについて」です。

 

「なぜ?」が学びの入り口
らくだメソッドの高校単元を終えました。
学習を開始して、もうすぐ7年が経過しようとしています。小学2年生の単元から始めて、高校3年生までですから11年分の学習をしたことになります。学生のように勉強に専念するような環境ではなく、1日1枚を淡々とやってきました。
数学をきちんと学びたい。もちろんその動機はありましたが、それ以上に自分自身と向き合う意図が強くありました。(なぜ算数・数学を学ぶことが自分自身と向き合うことになるのかは
過去の振り返りを参照してください)
今思うと不思議なのですが、僕が学生時代にやってきた勉強はなぜか戻る選択肢がありませんでした。
わかっていてもわかっていなくても進む。おさらいの復習はあるけど、学び直しはない。とにかく先へ、先へ。
それはさながら遊園地の冒険アトラクションのようでした。バーで身体は固定され、訳もわからぬまま、レールの上を運ばれていく。決められた出来事が予定調和に起きる。わかりやすさと楽しさには工夫が凝らされているので、与えられるまま受け取れて、楽しめた人は目を輝かせるでしょう。
ただ、どこかの細部で気になってしまった人は、どうすればいいのでしょう?
乗り物から降りて、好きなキャラクターをもっと近くで見たい。この空間でもう少し過ごしたい。その願いは、許されません。
機械仕掛けの動物やキャラクター達の細部を見られたら、運営者からすれば世界観を壊すから都合が悪いからです。なぜこの動きがするのかを知りたいのに……。
そんな経験を繰り返すうちに、好奇心を懐くことは不毛だと思いました。
立ち止まることは後ろめたいものになりました。
戻ることはいけないことだと、先入観が刻まれました。
それを意識したのは、かつての振り返りでも書きましたが、初めて解答を見ながら問題を解いた時です。強烈な罪悪感に苛まれました。
しかし、なぜ答えを見ながらやったらダメなのでしょう?
わかるようになるためなのであれば、答えを見たっていいではないですか。
その問いが生まれ始めた時、僕の学びは始まったと言えるのかもしれません。

 

アンラーニング
手に入れるよりも、まずは不要なものを手放す。らくだメソッドを語る上で、アンラーニングは鍵になります。
寺子屋塾の井上さんは、
「泥水の中に水を注ぐようなもの」と例えていました。どれだけ綺麗な水(質の高いインプット)も、泥水に注げば濁ってしまう。だから、まずは泥水を捨てた上で(アンラーニング)、そこに水を注ぐのだ、と。
ただ、実際のところそんなに簡単なものじゃありません。いくつもの壁が立ちはだかります。まず認知の問題。
常識や先入観、癖というのは自分の身体に染みついたもので、体臭のように本人が意識することは困難です。自覚がないのですから、他者に「臭い」と言われてもピンと来ません。
だから、記録によって外部化して、振り返りによって抽出することになります。自分に先入観が存在するのだと認め、受け入れるのはそれくらい大変です。
そして、いざ手放す時の葛藤もあります。
いわばゲームのセーブデータのようなものです。これまで自分がなんとか生きてきた証であり、確かに大事だったものです。
今だってある一面においては、役に立っているかもしれません。それを手放すというのですから、惜しいと感じてしまうのも仕方ないです。「自分は〇〇だから」と予防線を張って傷つかないようにするための言葉が、また必要になるかもしれない。お守りのように持っていたい。だから、一旦捨ててもまた拾い直して、また捨ててを繰り返すのです。その果てにようやくなくても大丈夫だと振り切れる時がやってきます。
このように、アンラーニングとは地道で泥臭いものです。そして、0から1を生み出す新しい挑戦と同じように、1を0にして現状を変えるのは、大きな決断になります。

 

「私が」を取り戻す
「私が選んだ」と心から思えることがどれくらいあるでしょうか?
学ぶことに限った話ではありません。仕事や勉強、遊び。それは全て「私」が選び、行っていることだろうか?
与えられて、駆り立てられて、仕方なくやっていないかだろうか?
視聴率、売上ランキングなどと数字で表されると、なんとなく凄いと感じてしまいます。けれど、だれかが恣意的に作った一般論に過ぎません。「それだけ多くの人に求められているからすごいのだろう」と自分に暗示をかけないと価値がわからないのであれば、他者の掌の上で踊り続けるだけです。
数字に現れない。
なんの役に立つかわからない。
だれもその価値を担保してくれない。
それでも「面白い」「楽しい」「大事だ」と思うものが、本当に自分が大事なものなんじゃないでしょうか。そこから生まれる喜びも不満も、栄光も後悔も、全てが「私」が選んだ、あるいはその延長線上で起こったことです。
たとえ、だれかがやれと言ったのだとしても、最後の最後で行動したのは「私」です。
そこから逃げてはいけない。選択肢を自分が握っているうちは、「私」が変えられます。しかし、決定権すらも他者に委ねた瞬間、自分を変える機会を失ってしまいます。
少なくとも7年前の僕は、自分の舵を握れていませんでした。今も完璧とは言えません。ただ、自分の人生の当事者として生きることが、以前よりも格段にできるようになりました。
それはらくだメソッドの学習を通して、誰からも指示されず、報酬も罰も与えられないままやってきたからです。
やるもやらないも、自分に全てが降りかかってくる。らくだメソッドを通して、責任を引き受けていく訓練をコツコツ積んでいったことで、僕は自分がやると決められるようになりました。
……いや、違うな。誰かのせいにしたって苦しいのは自分であることを、身を持って知ったのです。それなら、初めから自分が引き受けた方がマシです。
学ぶということは、その連続なのでしょう。そこには意志と勇気、なによりも決断を日常化させるための継続が大事になってきます。


●2回目は「続けることについて」です。


問いを産む継続
継続や習慣についての本・記事はたくさんあります。「やり続けること」にそれだけ多くの人が関心を持ちながら、方法論が集約されていかないのは、どれも一長一短で継続したい人々が一筋縄ではいかないと感じているのでしょう。どんな目的のための継続によるかによって、アプローチの仕方も随分変わってくるでしょう。
たとえば、仕事でなんらかの成果を得るための継続であれば、そのために必要なデータを抽出して、それが上がっていくための試行錯誤を繰り返すことになります。
しかし、アンラーニングのための継続はどうすればいいのでしょう?
今あるものを手放していくのですから、数値的な意味でいえば、「こんなことをしなくなった」とカウントすることになります。減少する数字を追いながら、モチベーションを保つことは困難です。もちろんらくだメソッドでは、1日1枚をやっていくわけですから、単元としては進んでいきます。学力もついていくでしょう。しかし、成人した大人がやる学習においては大きな意味は見出せません。
だから、あまり期待せずにとりあえずやると決めて続けていく。すると、続ける中で疑問が生まれます。
自分は一体なにをしているのだろう? なにがしたいのだろう?
この疑問に辿り着けることが僕は大事だと思っています。
仕事だから。友達だから。家族だから。知らぬ間に思考がパターン化されていて、なんとなく折り合いがつけられそうな理由さえあれば、本来しっかり考えなければいけない事柄もすり抜けていきます。
プリントを続けていくことは大した意味はないように思えます。
しかし、何事も継続していくことが大事なのです。続ける中で、僕達はその意味や動機を考えざるをえなくなります。
たとえば、毎日30分歩くとしましょう。始めて間もない頃は、新鮮さもありますし、抵抗もありません。しかし、数ヶ月、1年と続けていけば、「なんでやっているんだっけ?」と思う瞬間が必ず出てきます。
しかも、それは得てして疲労や飽きを感じている不調な時です。
問いにぶつかり、考えていくことで、自分の思考の解像度が上がり、転機が訪れます。
僕自身らくだメソッドの学習を続ける中で、何度も壁にぶつかりました。ほぼプリントに取り組まない期間が繰り返し起こるので、流石におかしいと思いました。
僕はその時に、「なぜできないんだろう?」と自問しました。まるで不可抗力のように言っていましたが、考えを進めていくと単に「やらなかっただけ」だとわかりました。
忙しかったとしても、1日10分程度の時間も用意できないはずはありません。どれだけ上手い理由を並べても、全部言い訳です。
自分の欺瞞に気づいた時は、とても恥ずかしく、惨めな気分になり、塞ぎ込みました。
このように、起こる変化は必ずしも本人にとって良い変化ばかりとは限りません。自分の欠点や課題が明らかになることで、より不調に陥ることも珍しくないです。
それでも長期的な視点でみれば、自分の浅ましさに早めに気づいて良かったと思います。課題が明らかになれば、それを解決する方法も見えてくるからです。
だから、なにか継続する行為そのものに、すごい力が眠っているのです。

 

ただやる
ただし、目的を持って継続をしない方がいい。
正確には、そうした継続はあってもいいけれど、それとは別に報酬や罰とは無縁の継続を持っておくことが、僕達を豊かにします。
明確な目的があると、どうしてもその目的に縛られてしまいます。すると、奥行きと広がりは乏しくなります。
上記の例でいえば、「とにかく取り組めるようになること」が目的になってしまうと、「プリントをやったorやらない」だけが焦点になってしまいます。それでは、外に原因を求める自分にはいつまで経っても気づけなかったでしょう。
はっきりとした目的を定めないからこそ、予期せぬ発見が訪れ、影響があらゆる場面に波及していきます。ともすれば不毛で無駄なことに取り組む中で、違和感と疑問を抱く。それが変化のきっかけになると共に、軸になっていきます。
軸を持つというと、どんなことがあってもぶれない軸と思われることが多いです。僕は崩れないのではなく、崩れてもすぐに戻れることだと考えています。
好調の時には当たり前にできてしまうのだから、軸だなんだと考えるのは不要です。軸を必要とするのは、むしろ逆です。不調や違和感を抱えて、首が回らない状況に陥った時に、立ち返るためのホームポジションが必要になるのです。
これを読んでいるあなたは、立ち返る自分軸を持っているでしょうか?
心当たりがある人は心身ともに安定しているのでしょうが、意外と思いつかない人はいるでしょう。それを日頃から用意しておく。そのために継続をしていくのです。
1年後は違うかもしれないですが、少なくとも今の僕はそう思っています。

●最終回は「全体の総括」です。


いつでもやれる
小学2年生の単元から始めて、高校3年生までですから11年分の学習をしたことになります。学生のように勉強に専念するような環境ではなく、1日1枚を淡々とやってきました。
「1日1枚」はあくまでも前提であり、僕の最長記録は152日連続です。1ヶ月近くほぼやらない期間が何度かありましたし、今も毎日やっているわけではありません。
ただ、何度途切れようとちゃんと最後まで辿り着きました。
かつての振り返りでも書きましたが、僕はちゃんと継続してきたことがありませんでした。スポーツや習い事もお遊び程度にやっていたくらいで、自分でやろうと思ったことも大抵は1ヶ月も経たないうちになかったことのようになっていました。
それが7年ですから、個人的に誇らしいことです。
正直なところ、この継続がらくだメソッドのおかげか、と言われればそうとも言えません。僕が物事を続けられるようになったタイミングがたまたまその地点だったのかもしれません。同じ頃に始めたヨガも続いていますし、ファシリテーターとしての学びも続けられています。ただ、その一因であることは間違いありません。
前回の振り返りを書いたのが6年の時でした。その後の1年間、大きな波はなく、できたりできなかったりを繰り返しながら、淡々と取り組んできました。
正直なところ、最終段階の微分積分はとても難しく、完全に理解したとは言い難い状況です。それでも、とりあえずクリアの基準は満たしたので先に進むことを選択していました。また、後ほど学び直したいと思っています。
最後の2、3ヶ月間、ほぼ毎日プリントに取り組んでいました。
モチベーションが上がったというよりも、生活リズムが乱れがちだったために、自分の軸を安定させる必要があって、プリントに向かっていたのでしょう。この期間、朝にやったり夜にやったり、時間はまちまちでした。これは僕にとって非常に大きな変化でした。
かつての振り返りで、習慣からの脱出について書いていました。
習慣のおかげで継続できている。しかし裏返せば、その習慣から外れてしまえば、できなくなる不自由を抱えることです。
だから、因果に関係なくできることが自在なのではないかと考えていました。それが今、できるようになっているわけです。
やると決めたことを当たり前にできる。それは清々しいです。


過去の自分の言葉が、問いかけてくる。
この振り返りを書く前に、かつての振り返りを全て読み返しました。
始めた当初の苛立ちと困惑の入り混じったざらついた文、全然やらなくなった時期の投げやりな振り返り、学ぶ喜びを見つけた時の感激を記した文章もあり、多くの段階を経て今の自分があります。
ただ、全てはは全部過ぎ去ったものに感じました。もっと感慨が湧き上がってくるかと思いましたが、かつて紡いだ言葉に対して臨場感がありませんでした。それはもう喉元を過ぎた後で熱さを忘れてしまったのでしょう。
他人事のように感じられるからこそ、それらの文章が自分に問いかけてくるような感覚があります。
もがき苦しんでいた時の、問いの答えを探す必死さが今の自分にはあるか?
ただクリアするのではなく、1枚1枚を着実にやっていく丁寧さを見失っていないか?
ここまで得たものがあれば、失ったものもあります。
積み木のようにただただ高く大きくなっていくのではなく、経年劣化して、衰えた柱は補強する必要が出てきます。そうしなければ、土台から崩れていきます。
そのため何度も同じ課題と問いに立ち返りながら、自分をアップデートしていく必要があるのでしょう。

 

僕が得たもの
自分がこの7年間で得たものはなんだろう?
そう考えてみたのですが、どれだけ考えても「これ!」と一言で言い表せられる言葉が出てきませんでした。
正直なところ、自分が理想としていたような人間にはなっていません。始めた当初、自信もなく、人と目を合わせていると落ち着かなくなる程度には人見知りでした。記録と振り返りをループしながら学習を続けていく過程で、自信が手に入り、魅力的な人間になれるのではないか?
そんな淡い期待を懐いていましたが、見事に砕かれました。
今の僕は、全くそうなってはいません。
けれど、別に僕は過去に思い描いた理想に、憧れがなかったことに気づきました。自分が正しいと信じて疑わないことも、他者をぐいぐい引っ張っていくカリスマも、僕は必要としていませんでした。それよりも、自分の過ちに気づき、そこから目を背けずに学び、変容する人間になりたかったです。
つまり、僕は理想郷を見つける探検に出かけていたのではなく、本当に求めているのはなんなのか自分の内を掘り進めていたのでしょう。生きている中で、何層にも折り重なった自分の思い込みを掻き分けて。
よくわからないものには、手を出さない。かつての僕の行動原理はそこにありました。不安だし、不明瞭だし、悪いことが起こるかもしれない。だとしたらやらない方が安全だ。
けれど、そうやって距離を取ったまま、ある日突然わかる日がやってくるのでしょうか?
よくわからないから、やってみる。
わからないから触れてみて失敗してみないといけない。そこで初めてスタートできる。そういう思考が少しずつできるようになりました。
リスクはあります。ただ、種類が違うだけでどんな選択にもリスクはつきまといます。
他者は安全を保障してくれるかもしれません。あるいは、補償をしてくれるかもしれません。けれど、最終的に選択と行動を起こすのは自分である以上、どのリスクを引き受けるかを選択する必要があるのでしょう。
「僕はあの人みたいにできない」
行動力がある人を見て、いつも内心では頭を掻きむしっていました。
それが最近「私は本田さんみたいにできません」と面と向かって言われて、笑っちゃいました。 
別にだれかと同じように生きる必要なんてどこにもないのに、頭だけで考えるとやっぱりそうなっちゃうんです。
きっと、ここまで読んできた人も、僕が言っていることの意味がよくわからないと思います。それは、あくまでもこの体験が僕のものである証拠です。どれほど上手く抽象と具体を行き来して、簡単な言葉を使ったとしても、体験していない人にはわからないことがあります。逆に、理解してからでないとできないなんてことは、すぐに思いつきません。
やりながら理解していけばいいじゃないですか。
少なくとも僕はそう思えるようになりました。それが得たことなのかもしれません。
あとは、呼吸がしやすくなりました。
緊張で手がベトベトになることは少なくなりました。
苛立ちや怒りを覚える時間は格段に減りました。
以前よりも、自然に笑えるようになりました。
安心して自分の話ができる相手が増えました。
わかりやすい変化はそれくらいです。

 

終わりに
始めて1年の振り返りに以下の文章を書いていました。

 

 

私はこのらくだメソッドをいつまで続けるのだろう?
最近、そんなことを思うようになってきた。
少なくとも高校全てが終わるまでは続くのだろう。
そしてそれを終えた時に、

私はどのようにプリント向き合おうとするのだろう?
全てを終えた時の自分が

どんな選択をするのか楽しみだ。

 


明らかに格好つけた問いで、痒くなっちゃいます。けれど、過去の自分が投げかけた問いに、答えなければいけないと思っています。
正直なところ、まだ答えは出ていません。
一応プリントを惰性で続けていますが、今はちょうど1週間ほどお休みしています。
ここで止めるのもありだと思っています。
高校単元のまだ理解が甘いところをやり直すのもいいでしょう。
簡単な単元に戻って同じプリントをひたすらやり続けてみるのもありかもしれません。
もう、どの選択をするのかはあまり重要ではなくなっています。
焦るものでもないので、じっくり考えてから答えを出したいです。
 

 

さて、長々と読んでいただきありがとうございました。
終わったその日から書き始めたのに、2回空中分解して、0から書き直しました。
かなり難産の振り返りになりましたが、大きな区切りとなるので、なんとか形にできて一安心しました。


最後に、有料であとがきのようなものを書きました。

内容的にはここまでで書きたいことはすべて書いたので、蛇足になりますが、
興味のある酔狂な方はどうぞ
こちらからアクセスしてご覧ください。

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(引用ここまで)

 

3ヶ月ほど前、今日の名言シリーズで

ルネ・デカルトの

『頭がよい人ほど誤りやすく真理を捉えられない』

という言葉を紹介する記事を書きました。

 

アタマの良い人は、複雑なことを理解する

能力が高いのかも知れません。

 

でも、デカルトの言うように

ある人が7年考えたことを

2つ3つのことばを聞くだけで、

1日で分かるようになることが、

本当にスバラシイことなのかどうか

わたしには疑問です。

 

本田さん固有の7年間の体験に基づいて

このふりかえり文は書かれたものですから、

本田さん以外の方が読まれても

きっとよくわからないことばかりでしょう。

 

もし、本田さんがこうして

7年かかって体験されたことが、

1日分のこのブログ記事1本だけですべて代用でき

わかってしまうものであるのなら、

本田さんの体験は一体何だったんだろうってことに

なってしまうわけですから。

 

よって、これを読まれる皆さんには、

内容をアタマでわかってしまうことなく、

その〝わからなさ〟こそを大切にされ、

さまざまな〝問い〟を掘り下げ、深めていただく

きっかけにしていただければと願いながら

ここにご紹介しました。

 

ちなみに、本田さんがらくだメソッドについて

書かれた記事はこちらからすべて読めますし、

3ヶ月めから1年9ヶ月めまで

3ヶ月毎に書かれた7本のふりかえり文には

わたしがひとつひとつコメントを付していますので、

それを読まれたい方は

旧ブログ・こちらの記事からアクセスしてみて下さい。

 

その記事にあるリンクをたどっていくことで

すべてを読むことができますので。
 

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