『共同幻想論』『サピエンス全史』と仏教のつながり
2022/11/13
日曜は古典研究カテゴリーの記事を投稿しています。
今日は月に数日設けている休日開室日で、
朝10:30からずっと夜まで中村教室にいました。
休日開室日にはいつも塾生が五月雨式にやってきて、
主にらくだメソッドや未来デザイン考程の
学習ガイド役をつとめています。
今日は、教室にきていた塾生たちに向かって、
本の読み方に絡めて、
古典と呼ばれる書物を読むことに
どのような価値があるかという話をしたので、
大事なポイントを整理しておくことにしました。
さて、昨日投稿したblog記事に、
本に書いてある言葉は、あくまで自分で考えるための
素材のひとつにすぎなくて、本で読んだことを
自分が生きている現実のなかで実践するためには、
いろんなことと関連付けながら、
自分の頭で考えるプロセスがどうしても必要なんです。
と書いたんですが、
そのことについての具体例を挙げて書いてみようかと。
たとえば、こちらの記事で書いたように、わたしは、
これから先も時代を超えて永く読み継がれ、
「古典」と呼ばれるに足る数少ない書物の1冊に
なるんじゃないかと考えているんですが、
なぜそう考えるのか・・・
その理由は、吉本さんがなぜ、
『共同幻想論』のような本を書けたのかという
問いを考えてみることで、
手がかりが得られるんじゃないかとおもうんですが、
前の記事には、「壮大な構想、鋭い着想、深い思索」
と書いたものの、どこから、あるいはどうやって、
それを獲得したかということですね。
もちろん、この壮大な問いに対して、
明確な答えを出すのは容易なことではありません。
ただ、吉本さんご自身の読書体験の様子が垣間見える
『読書の方法』という本もあるので、
そこに書かれていた話などを手がかりにしながら
考えてみたんですが、
終戦直後、吉本さんは、日本が負けたことに落胆し
蔵書は全部売り飛ばして国訳大蔵経全巻を買い、
2年くらいそればっかり読んでいたという
エピソードがわたしには結構響いたので、
もしかすると、吉本さんの仏教への造詣の深さは、
その辺りに起因するのではないかと。
あくまで想像でしかないんですが、たとえば、
お釈迦さまが説かれた「如実知見」というのは、
「あるがままに観察することの大切さ」ですから、
『共同幻想論』の内容としては、
仏教について一言も書かれていなくても、
全体の論旨は仏教と大きくつながっているように
わたしには感じられるわけです。
さて、それで、仏教とのつながりを感じる本を
もう1冊挙げてみましょう。
歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが著した
『サピエンス全史』には、ホモ・サピエンスが
なぜ現在の文明を築いたかが書かれているんですが、
全世界で2000万部以上のベストセラーとなりました。
そこに書かれた、人類はおよそ7万年前に起きた
認知革命によって言語を駆使し集団で行動し始め、
国家、法律、貨幣、宗教といった虚構ーーー
つまり、想像上の秩序を共有することが可能になった
という話を読んだときに、おもいだしたのが
吉本さんの『共同幻想論』で、こちらの記事など
この両者の類似性について指摘する記事は、
枚挙にいとまがなくたくさん見つかります。
つまり、『共同幻想論』も『サピエンス全史』も
両者に共通して、お釈迦さまの教えというか、
仏教の存在がその土台にあるんじゃないかと。
そしてそれが、多くの人に読まれている
大きな理由のひとつなのではないかと。