細谷功x佐渡島庸平『言葉のズレと共感幻想』
2022/11/18
金曜は読書関連の話題を投稿しています。
先週、古典研究のカテゴリーで、
という記事を書きました。
その記事にも
『共同幻想論』と『サピエンス全史』は似ていると
指摘する人は少なくないという話を書いたんですが、
その2作と仏教との関連性に
言及した記事は読んだことがなかったので、
そんなことを感じるのは自分ぐらいかなと
最初はおもっていたんです。
そうしたら、ありましたありました!
しかも、こちらの記事で紹介したように、
今年になってから読んだ『観察力の鍛え方』という本が
とっても面白くて、最近では佐渡島庸平さんの本を
片っ端から読んでいるんですが、その佐渡島さんと、
5年前に出会ってから
これまたとても面白くてファンになってしまい、
著書を片っ端から読んでいる細谷功さんの対談なら、
しかも、『観察力の鍛え方』を出版された後で
行われた対談で、2022年1月に出版されたばかりの
この本が、面白くないはずがありません。
ちなみに、細谷功さんの『具体と抽象』については、
寺子屋塾生・本田信英さんの学習ふりかえり文章を
紹介した旧blogのこちらの記事で触れています。
『共同幻想論』と『サピエンス全史』が仏教と同じと
佐渡島さんが指摘されている箇所は本書の後半にあり
第13章 幻想と妄想と虚構から以下に引用します。
責任について対話されている部分で、
該当部分は後半に登場します。
(引用ここから)
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「責任」というあいまいさ
佐渡島 アドラー心理学的にいうと、不安になることにはメリットがあるんですよ。うつ病も、うつ病になることにメリットがある。どちらも自分を守ろうとする行為だから。新型コロナによって不安や幻想やデマが人々のあいだに広がることについて、細谷さんはどう考えていますか。
細谷 人々が何を恐れていたかっていうと、新型コロナに感染して肉体的にどうこうなるというのはもちろんですが、とくに初期段階はそれによって周りの人から、あの人が感染源だと名指しされることが一番怖かったんじゃないでしょうか。ネット社会には、その個人を嗅ぎつけて特定しようとする人がいっぱいいて、それは何万人も探偵がいるようなもので絶対に逃れられないし、特定されたらあっというまに数万人、数十万人に情報が広がるわけですから、その恐怖が一番大きかったのではないかと思いますね。
佐渡島 レピュテーションリスクを避けたいという意識ですね。
細谷 日本的にいうと、へたをすると村八分的な状況になりかねない。日本に限らずほかの国も似たような状況に見えますね。
佐渡島 自分の行動の履歴が明らかになってしまって、自分が予想しないところで加害者になってしまうことを避けたいと思うと、できる限り行動しないという結論になるでしょう。コンサートやイベントの場合には、責任が主催者にあるみたいな感じになってしまいますからね。よくわからない「責任」というものを回避しようとしている。責任を取らないといけないことへの不安のほうが、病気への不安よりも大きいように思います。
細谷 とくに会社側はその傾向が強いと思います。世の中が自粛ムードなのにイベントを開催した場合、そこに言い訳の余地はまったくないですから。リスクを冒して幾ばくかの売上を上げたって別に褒められはしないけれど、そこで万が一何かあったら、この先もう生きていけないくらい叩かれてしまう。
佐渡島 ただ実際のところ、何かあった場合に取らされる「責任」というのがどういうものなのか、あまり想像ができないじゃないですか。激しく批判されるとか Twitter でののしられるか、せいぜいそんなところじゃないか。
法を破った場合にはその罪に応じた罰がある。でも責任という概念は、かなりあやふやですよね。責任があるからといって苦境に耐えたり、責任が怖くて逃げたりするわけだけど、そもそもの責任があいまいな概念だから、「責任を取る」という行為は、実際にはほぼできないじゃないですか。辞めるという行為が一応、責任を取ることのようになっているけど、そういうことにしているだけでしょう。責任という概念自体、みんなが信じている妄想だと思うんですけど。
細谷 そうですよね。逆に法律みたいなものがあったほうが、法を犯してでも何かを成し遂げた人が、のちに大称賛されることもあります。でも責任を負って何かをしましたっていうのがプラスになることはまずなくて、何かあったときのマイナスがとてつもなく大きいです。
佐渡島 責任という概念は昔からずっと存在しています。僕も社員に向かって、「責任取れるの? 取れないなら、情報共有しようよ」と口走ったことも過去にないではないけれども、実際責任を取ってほしいのかというとそうではないし。
みんな責任という言葉を、どういうふうに使っているんだろう。社会で当たり前のように使われている概念が、本当に幻想ばかり、虚構ばかりに思えてなりません。
宇野常寛さんの『遅いインターネット』(幻冬舎)の中で、吉本隆明の『共同幻想論』 (河出書房新社)が取り上げられています。『共同幻想論』には、自分たちは幻想を共同で持っているから、同じコミュニティ、同じ社会なんだと記されていますが、実は仏教で自分たちが持っているものは妄想で、妄想をみんなで信じているといわれているんです。
さらに、斬新だといって最近注目された『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ、上下巻、河出書房新社)には、人間は虚構によって人間たりえていると書かれていました。仏教も吉本隆明も『サピエンス全史』も、全部一緒のことを言っている。言い方が違うだけ。
人間の考えることって、実はほとんど進化していないんですね。自分流に好き勝手にアレンジして、さも新しく見つけたふうに言い出した人が、その時代の知識人みたいな雰囲気になってきただけなんだと思います。
人間の寿命が延びているといっても、人が頭で考えられる時間って、今も昔もそんなに変わらないでしょう。80年生きたとしても、60年、70年で考えられることって、頭のよしあしにかかわらず大した差はなく死んでいくわけです。
科学的な「知」に関してはストックが見えるわけだけど、哲学的な「知」に関しては何もストックがされていなくて、繰り返し同じことが流れているだけなんだと感じます。
※細谷功 × 佐渡島庸平『言葉のズレと共感幻想』
第13章 幻想と妄想と虚構(P.228〜231より)
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(引用ここまで)
そう。責任っていう言葉自体、実はとても曖昧で
あやふやなものなんですよね。
社会には、こういうあやふやな幻想、虚構が
ここかしこに満ちあふれているんですが、
それがまさに共同幻想の本質ではないかと。
たしかに、こういう幻想、虚構が共有できることが
人類の強みであるわけですが、
それはそのまま弱点でもあるわけで。
本書には
「言葉というものは最強のツールであると同時に
最大の弱点でもある」
「共感は基本的に幻想であって、
〝よくわかる〟なんて言ってもほとんどが勘違い」
「知識とは言葉の意味を理解していることではなく
体感として理解し血肉になっていることだ」
等々、とても重要な指摘がたくさん登場するので、
今後も何度かこのblogで取りあげることに
なるかもしれません。
いずれにしても多くの人に読んで欲しい1冊です。