小山田徹『世界は不可能性の可能性に満ちている』(今日の名言・その49)
2022/12/19
私たちは、上手な引き算が ※小山田 徹(1961年鹿児島生まれの美術家、京都市立芸術大学教授)『不可能性の可能性』(TURN JOURNAL 2020年春号所収)より 「5to9」第1号より拝借しました
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いま、中村教室にて読書会が持たれている
本のタイトル(→次回は年明け1/22に決まりました)
『世界は贈与で満ちている』と似た言い回しですが、
「世界は不可能性の可能性に満ちている」って、
いったいどんなことでしょうか。
「不可能性の可能性」って、ちょっと難しそうですが、
けっしてネガティブな意味ではないようです。
じつは、今年つんどくらぶで3回にわたって読んだ
ハイデガーの『存在と時間』にも、
類似のフレーズが登場していました。
たとえば、
「死というのは、あらゆる生の可能性を喪失してしまう
という可能性である」というような具合です。
人は、死んでしまえば何もできなくなります。
当たり前のことですが、
家族と親しく会話をしたり、音楽を聴いたり
おいしものを食べたり、ボランティア活動をしたり、
そうしたあらゆる生の可能性を、
喪失してしまうのが死であると。
つまり、人が人生の意義を問うたり、
将来の選択に真剣に悩んだりするのも、
人生が限りあるものであることを
知っているからです。
動物たちは、死という概念を知りません。
もちろん、人間であっても、
そうした死という生の不可能性を隠蔽して、
見て見ぬふりをして生きることもできますが、
死という不可能性と
まっすぐ向き合うこともできるんですね。
ハイデガーは、これを「死への先駆」と呼びました。
わたしたち人間は、
生きていることの可能性について考えようとしても、
なぜそうしたいのかが
ハッキリとわからなかったり、
それがなぜ大事なのかを
見失ってしまったりすることがあります。
でも、わたし自身も経験がありますが、
若い十代の頃に病気をしたために、
たとえば仮に、病気によって、
健康なときにできることの1割ぐらいしか
できない毎日を過ごしていたとして、
そのことによって、
その1割しかないエネルギーをいったい何に使うか
何が大事なことであるのか、
真剣に考えざるを得なくなってしまう・・・
つまり、病気によって、
生の可能性を制約されることは、
けっして本意ではなく、不本意なことであっても、
それが、却って生の不可能性を意識し、
その不可能性に先駆的に着目することにつながって、
その可能性に目覚めるというメリットは
確実にあったように感じているからで
これこそが「不可能性の可能性」なのではないかと。
冒頭に挙げた名言を引用したもとの文章
TURN JOURNAL はネット上にアップされているので
このわたしのコメントを読まれても
あまりピンと来ない方は
ぜひ全文をご覧になってみて下さい。