無門関より「ふだんのありのままの心が道である」(今日の名言・その51)
2023/01/09
南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。
[井上による意訳] 趙州:それをめざして修行してよいのでしょうか? 南泉:めざそうとしたら、それはもうありのままではない。 趙州:めざさなかったら、どうしてそれが道だとわかるのですか?
※『無門関』第十九則「平常是道」より
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『無門関』は、中国南宋時代の
無門慧開(1183〜1260)によって編まれた
禅宗の仏教書のこと。
このblogでは、らくだメソッドの学習と
仏教の親和性について触れた記事を
時折書いていますが、今日のこの名言も仏教関連で、
オイゲン・ヘリゲルの名言でも触れた
時間論に繋がる話です。
もちろん、仏教との親和性といっても、
いわゆる、宗教としての仏教とは
違う部分に関してなんですが。
この趙州と南泉との対話を読むひとつのポイントは、
「目指さない」という言葉を
どう受けとめるかにありますが、
「目指さないのになんで夢が実現するんだろう?」と
疑問におもう方がおられるかもしれません。
でも、何かを目指すことって
実現するための必要条件なのでしょうか?
目指せばそれが実現する確率が上がるのでしょうか?
実は、大脳で考え、コントロールできていると
見做していること自体、人間の錯覚であって、
順序が逆なんですね。
人間は言葉で考える動物なので、
その言葉自体が思考という牢獄を
つくりだしていることに
なかなか気づくことができません。
つまり、「いま、ここ」に軸を置いて生きていると、
何かを目指すという思考そのものが消え、
逆に、実現することしか
おもわなくなってしまうんです。
この無門関にはいわゆる禅の公案が
たくさん書かれているんですが、
「いま、ここ」ではなく
意識がすぐ未来に飛んでしまい
大脳優位な思考モードに傾いてしまう方には
オススメの1冊と言ってよいでしょう。