「折り合いをつける」ということ
2023/01/21
土曜は教室での塾生とのやりとりや、
塾生の書いたblog記事を紹介したり、
らくだメソッド関連の記事を書いたりしています。
今日は塾生の一人とやりとりする中で
「折り合いをつける」という言葉が出て来たときに
塾生の西尾さんが昨年11/27に書いていた
『折り合いをつける』と題された
blog記事のことをおもいだしたので
その記事を原文のままご紹介。
(引用ここから)
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折り合いをつける。
本日は高校156のプリントを行いました。
この記事を書き始めるとき、
「高校教材も後半で、手を動かすだけでは解に辿り着けない類の教材で、、、」
と書こうとした。
しかし、教材ごとに難易度は違えど、人によって難易度の感じ方は違う。
また、理解したと思える基準、今日はここまで!とする基準も違う。
私が、
「高校教材も後半で、手を動かすだけでは解に辿り着けない類の教材で、、、」
と書こうとしたのは、幾何学的に頭か紙の上でイメージが具現化しないと、理解できたとしない基準のせいだった。
答えを見ながら、目安時間で問題が解けたらOKとするのも、基準としてはアリだ。
人それぞれ解りたい具合は違う。そこに学ぶ目的も入ってこれは学びに対する基準は多様になる。
プリントに手がつかない日があるのは、分かるの基準を自分で作って、自分で1歩目を出すのを難しくしていた。
もちろんこれまでの教材より、フレッシュなコンディションで取り組んだ方が良い教材ではあるし、時間もかかる。(と認識している。笑 ⇦これも思い込みかもしれない。笑)
しかし、1枚のプリントとの折り合いを自分がどう着けていくかが大事だ。
結果としてプリントが毎日できていないが、
プリントと折り合いがつけられていない。=自分との折り合いがつけられていない。
から、プリントができていないぁ。になっているのだろう。
これは何となくの直観だが、折り合いは一生完全につかない。笑
だから、ずっと折り合いはつけていく。ついてまわるのだろうと思う。
※1/22付記:コメントは翌日1/22の記事に書きました