自己決定とは自分だけで決めないこと???(つぶやき考現学 No.65)
2023/02/22
自分のやりたいことを
やりたいようにやれることが自由で、
何をどのようにやるかを
自分自身で決めることで
自己決定力は育っていくんだと
考える人は少なくないだろう。
でも、そうおもう人の
ほとんどはおそらく、
アタマの中でそうおもっているだけで
行動には移しておらず、
「自分はなんて不自由なんだろう」
「自分には自己決定力がない」などと
悩んでいるのではないだろうか。
なぜなら、もし自分のモノサシや主観で
「やりたいこと」と「やりたくないこと」に分け
その中のやりたいことだけをやっていけば、
自分のやれる範囲や可能性が広がるどころか
どんどん狭くなっていってしまうことは、
やってみれば誰にもすぐわかることだからだ。
本来、自由とは、
自分が無自覚のうちにつくっている
さまざまな制約や条件づけ、思考の枠を取っ払い、
世界をひろげていくことで
はじめて得られるもののはずだ。
それに、人間にとって生きている瞬間瞬間を
選択の連続だと捉えるなら、
選択に至るまでのさまざまな経緯があったとしても
最終的にその判断と行動を決めているのは
その人自身であることに他ならず、
自分で決めずに生きている人など
この世には1人もいない。
結局、自分のアタマで考える狭い範囲のなかで、
自分がやりたいとおもっていることを
やりたいようにやっているだけでは、
自己決定力は育たないだろうし、
そうした狭い自分の枠をひろげ、
自由の世界へと導いてくれるのは、
自分と異質な〝他者〟の存在にほかならない。
だから、「自分のやりたいことは何か?」なんて
自分ひとりでどんなに考えてもわからないし、
やりたいことを探すのに時間を割くぐらいなら、
やりたい、やりたくないに関わらず、
まわりからのいかなる求めに対してでも
スッと応じられる自分になったほうがいい。
よって、自分のやることを自分で選ばず、
自分ひとりだけで決めないことでこそ、
その人の自己決定力は磨かれ、
自由への道が開かれていくのだ。(2015.7.7)
※井上淳之典のつぶやき考現学 No.65
COMMENT:
よく、自分のやりたいことをやるのが
大事だと言われるんですが、
たしかに、そうした姿勢が
その人の可能性を拓くこともあるでしょう。
でも、もしその「やりたいこと」というものが、
過去に経験した範囲内だけであったり、
その人が頭の中で意識できるだけの
「やりたいこと」であったのなら、
それには大きな疑問が残ります。
現実に、かつての自分に
見えていなかったことが見えるようになったり、
気づかなかったことに気づくことが起こるのは、
他者との関わりがきっかけとなることが
少なくないからです。
自由や自己決定についても、
他者との関わりを前提として考えることが
大事なのではないかとおもったことについて、
詞のかたちで書いてみたんですが、最後の
「自分のやることを自分で選ばず、
自分ひとりだけで決めないことでこそ、
その人の自己決定力は磨かれ、
自由への道が開かれていく」という部分は、
ちょっとわかりにくいかもしれません。
でも、昨日の記事の内容をおもいだしてみて下さい。
ヨシタケシンスケさんが
絵本作家になりたいとおもったことが
無かったのにもかかわらず、
結果的に、現在のような超売れっ子の
絵本作家になれたというか、
なってしまったのは、
彼が自分のやることを
自分だけで決めなかったからであり、
自分がやりたい、やりたくないに関わらず、
「絵本を描きませんか」という
まわりからの提案、要望に対して
スッと応じられるように
自分の技術やセンスを磨く努力を怠ることなく
日々準備を重ねていたからではないかいうことで、
まっさきにこのつぶやき考現学のことを
わたしはおもいだしたんですが、
いかがでしょうか?