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森田真生『数学する身体』

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森田真生『数学する身体』

森田真生『数学する身体』

2023/03/10

今日は読書関連で、オススメ本の紹介記事です。

昨日投稿した記事で、塾生Bさんが書いた

ふりかえり文を紹介し、

その内容にたいしてコメントしましたが、

その文中に「学習の身体化」というワードを

書きました。

 

でも、この言い方はちょっとヘンです。

 

なぜなら、人間の脳というのは、

モトは腸だったという説があるんですね。

 

つまり、発生学的な視点に則って考えれば、

脳がモトからあって

あとから身体ができていったというのは

順序が逆で、

身体が先にあって、その一部が

進化というか変化し、

後から脳ができていったと見做すのが

妥当でしょう。

 

脳と身体を分けることに違和感を感じる方が

いらっしゃるかも知れませんが

学習している本体は身体で、

脳はそれを後から確認して、

意味づけしていると考える方が

わかりやすいんじゃないかとおもいますし、

実は、「学習の身体化」という言葉は、

ヘンだと知りつつ、敢えて書いたんですが。

 

ちなみに、発生学的視点については、

過去にblog記事に書いたことがあるので、

未読の方はご覧ください。

発生学的視点をどう活かすか

 

それで、少し前に

中村教室の本棚やパソコンがイケスで

そこに並んだ本やパソコンの中のデータが

イケスの魚という話を

次のように2回にわたって書いたんですが、

脳以外の場所に情報の〝イケス〟をつくる知的生産術

(その1) (その2)

 

古今東西の人々の名言を、すぐにコピペできる形で、

366名分ストックがあるのは

Facebookに名言を毎日投稿するのを

1年間続けたからだという話を

一昨日投稿したこちらの記事に書きました。

 

実は、その「今日の名言」の前には、

中村教室の本棚から

自分にとって大事だとおもう本を選んで、

「今日の1冊」というタイトルを付し、

その本の中味を紹介する記事を書いて

毎日Facebookに投稿するということを

2020.5.5から1年間続けていました。

 

とはいえ、まえがきからの引用のみが大半で、

その本との出会いやコメントを書けた記事は

少なかったんですが、

それでも、結果的に自分にとって大事だとおもえる

365冊の書籍リストが出来上がったわけです。

 

それで、昨日のblog記事を書いていて、

その「今日の1冊」365冊リストにも入っている

森田真生さんの『数学する身体』という本の

中身がおもいだされてきました。

 

とりわけ、単行本のP.30〜32に書かれた

「手許にあるものを掴みとる」という

中見出しでリードされた部分は、

〝教えない教育〟をキャッチフレーズにしている

当塾の学習内容とも

大きく重なっているように感じた箇所で、

そのまま引用してご紹介することにしました。

 

内容に対してのコメントは

後日改めて記すつもりでいるんですが、

2018年4月に文庫化され

現在では入手しやすくなっているので、

内容にピンと来た方は是非読んでみてください。

(引用ここから)

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手許にあるものを掴みとる
mathematics という言葉は、ギリシア語の μαθηματα(マテーマタ→学ぶべきもの)に由来する。それは本来、私たちが普通「数学」と呼んでいるものよりも、はるかに広い範囲を指す言葉であった。これを、数論、幾何学、天文学、音楽の「四科」からなる特定の学科を示す言葉として用いたのは、古代ギリシアのピタゴラス学派の人々だと言われている。 

 

ハイデッガーは、そんな μαθηματα という言葉について、『近代科学、形而上学、数学』(1962)と題された論考の中で、興味深い議論を展開している。μαθηματα が 「学ばれるべきもの」という意味だというのはよいとして、そもそも「学ぶ」とはどういうことか。

 

学びとは、はじめから自分の手許にあるものを掴みとることである、とハイデッガーは言う。同様に、教えることもまた、単に何かを誰かに与えることではない。教えることは、相手がはじめから持っているものを、自分自身で掴みとるように導くことだ。そう彼は論じるのである。

 

ややわかりにくいかもしれないが、ハイデッガーの言うことを、私はこんなふうに理解している。すなわち、人は何かを知ろうとするとき、必ず知ろうとすることに先立って、すでに何かを知ってしまっている。一切の知識も、なんらの思い込みもなしに、人は世界と向き合うことはできない。そこで、何かを知ろうとするときに、まず「自分はすでに何を知ってしまっているだろうか」と自問すること。知らなかったことを知ろうとするのではなくて、はじめから知ってしまっていることについて知ろうとすること。それが、ハイデッガーの言う意味での mathematical な姿勢なのではないだろうか。

 

 μαθηματα という語のこのような理解には、多分にハイデッガー自身の哲学が投影されているのだとしても、依然として示唆に富んだ解釈である。mathematics の正式な訳語として「数学」が採用されるのは明治のことだが、原語の背景には、単に「数の学問」という以上の意味の広がりがあったのだ。

 

仮に μαθηματα という言葉に「はじめから知っていることについて知ろうとする」という意味が潜在しているのだとすれば、数量や形についての学問が、 mathematics と呼ばれるのも頷ける。なぜなら、この世の事物に数量や大きさがあることは、誰もが学ばずとも「はじめから知っている」ことだからである。にもかかわらず、あらためてその数量や大きさとは何だろうかと考えるのが数学である。

 

特に、古代ギリシアの数学者にとっては、数量や形は、それ自体が研究されるべき対象である。彼らは、思考の手段として数や図形を用いるだけでなく、思考の手段として用いられる数や図形について、思考するようになった。ここに至って数学は、ハイデッガーの言う意味でまさしく mathematical な営みになったと言えるだろう。

 

 

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