寺子屋塾

わかることには際限がない(つぶやき考現学・No.57)

お問い合わせはこちら

わかることには際限がない(つぶやき考現学・No.57)

わかることには際限がない(つぶやき考現学・No.57)

2023/03/11

「わかる」ことには際限がない。

どんなに深く広くわかったとおもっても、

まだまだその先があるからだ。

 

よって、100%すべてわかってしまうことは

現実にはあり得ない。

「わかる」ということを

別の表現で言い換えるなら、

「わかったこと」と

「わかっていないこと」との

〝境目〟に気づいたにすぎない。

 

だから、ひとつのことが

「わかる」ということは、

「わからないこと」がまた新たに

ひとつ増えるということでもあって、

わからないことが

全てなくなったわけではない。

 

おなじように、

自分が書いていることや

話していることすべてがそのまま

相手に100%伝わるなんてことは、

あり得ないとおもっていればいい。(2012.4.15)

※井上淳之典のつぶやき考現学 No.57

 

COMMENT:

昨日の記事で紹介した森田さんの『数学する身体』に

次のようなくだりがあったんですが、

その部分を読んだ時、

浮かんできた詞がこのNo.57でした。


人は何かを知ろうとするとき、

必ず知ろうとすることに先立って、

すでに何かを知ってしまっている。

一切の知識も、なんらの思い込みもなしに、

人は世界と向き合うことはできない。

そこで、何かを知ろうとするときに、まず

「自分はすでに何を知ってしまっているだろうか」

と自問すること。

知らなかったことを知ろうとするのではなくて、

はじめから知ってしまっていることについて

知ろうとすること。

それが、ハイデッガーの言う意味での

mathematical な姿勢なのではないだろうか。
(中略)
仮に μαθηματα(マテーマタ・学ぶべきもの) 

という言葉に

「はじめから知っていることについて知ろうとする」

という意味が潜在しているのだとすれば、

数量や形についての学問が、

mathematics と呼ばれるのも頷ける。なぜなら、

この世の事物に数量や大きさがあることは、

誰もが学ばずとも「はじめから知っている」

ことだからである。にもかかわらず、

あらためてその数量や大きさとは何だろうかと

考えるのが数学である。

 

もちろん、「わかる」と「知る」は

厳密にいえば異なる言葉で、

わたし自身は両者を、まったく同一の意味では

使わないように日頃から心がけてはいるんですが、

両者に重なる部分があると

考えることには反対しません。

 

とくに、上に引用した森田さんの文章の「知る」は

かなり「わかる」に近い使い方のように

感じたからでもあります。

 

この詞のテーマ

「わかる」ことには際限がない、という話は、

外側からやってくる情報を

いかにうまくキャッチするかという主旨に

受け取られがちなんですが、

実は、それよりも

もともと自分の中に内在している

「既にわかっていること」をいかに深め

掘り起こすかということの方が

言いたいコトだったりします。

 

そういう意味で、

自覚的であろうとする姿勢の重要さ

日々痛感する次第であり、

そこがまさに当塾の学習における

根幹部分をなしていると言ってよいでしょう。

 

 

また、この詞に関連して、

数学とは「わかる」を拡張する学問である

というマイケル・ポランニーの言葉を紹介した記事

今日の名言(その26)

「知る」ということは、

「知ること」と「知らないこと」の境目を

自覚することであって、

知識を増やすことではない、という論語の章は、

古典研究カテゴリのこちらの記事で紹介したので、

併せてご覧ください。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
寺子屋塾に関連するイベント案内

3/18(土)『世界は贈与でできている』読書会 第7回

3/19(日) 第22回 経営ゲーム塾B
3/25(土) 未来デザイン考程ワンディセミナー

3/26(日) 第10回 易経初級講座

4/2(日) 映画「VOP予告編2」ビデオ上映会
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。