地域通貨を通じての坂本さんとの関わり(坂本龍一・追悼)
2023/04/09
坂本さん追悼の記事が続きます。
2001年ですからもう20年も前になるんですが、
それまで、音楽家として尊敬していた坂本さんの
ひとりのファンでしかなかったわたしが、
坂本さんと接点が生まれ、
じかに関わるという超レアな体験がありました。
坂本さんがあまりにも偉大すぎて、
説明するのがとっても大変なんですが、
そのきっかけはこんなことでした。
1998〜2001年頃のわたしは、
NPOが活動しやすい社会基盤づくりのための
中間支援組織を立ち上げたり、
Y2Kコンピュータ2000年問題に
関わったりしていたんです。
そうした流れから、
地域コミュニティの活性化を促す可能性という点から
地域通貨に注目し、
「全国地域通貨サミット」というイベントを企画したり、
四日市市の行政部署と協働して
商店街や地域社会の活性化を目的に
地域通貨の流通実験を行う事業に
関わったりしたこともありました。
寺子屋塾の教室を運営しながらのことだったので、
あまりの多忙さに、わたしの体力的なキャパを超え
大きく体調を崩してしまい、
まわりの皆さんには
いろいろ迷惑をかけてしまったんですが。
ところで、日本全国で地域通貨が
注目されるようになった経緯は
次のようなことからでした。
『モモ』『はてしない物語』などで知られる
ドイツのファンタジー作家ミヒャエル・エンデは、
1995年に亡くなったんですが、
晩年にお金のことを研究していたのです。
そして、エンデさんは亡くなる前年にNHKに対し、
お金をテーマにした番組を作るように提案され、
そのインタビュー音声に基づいて
制作されたドキュメンタリー番組
NHK-BSで放映されたのは
1999年5月のことでした。
エンデさんは、
「パン屋でパンを買う代金としてのお金と、
株式取引所で扱われる資本としてのお金は、
異なった種類のお金である」と認識し、
貯め込まれて流通しないお金、商品や投機の対象となる
お金が増えることは、大きな問題を引き起こす
引き金になると危惧されていました。
そして番組では、グローバル・マネーに依存しない
新しいお金の形として世界各地で行われている
地域通貨の取り組みや、
思想家シルヴィオ・ゲゼルによる
「時間の経過によって減価するお金」の考え方や、
世界恐慌の時には、
オーストリア・ヴェルグルで、
その考え方に基づいて発行されたお金が
実際にあったことなどが紹介されています。
この『エンデの遺言』という番組は
大きな反響を呼んだだけでなく、
冒頭の写真で紹介した書籍にまとめられ、
日本各地で地域通貨の実践が始まる
大きなきっかけとなったのでした。
その『エンデの遺言』に続いて、
「続・エンデの遺言」として制作され
2001年春に放映された番組の
進行役を務められたのが坂本龍一さんだったのです。
番組では、冒頭に
坂本さんが、パソコンの画面を開いて
全国で地域通貨の流通実験が始まっていることを
紹介する場面があるんですが、
その当時、全国の地域通貨実践団体のリンク集が
寺子屋塾のホームページ内につくってあり、
坂本さんがそのページを開いて
スクロールしているんです。
また、番組の終わりの方で、
全国の地域通貨実践者に行った
アンケート内容が紹介されているんですが、
わたしもそのひとりとして、
声と文字で出演させて頂いたのです。
『続・エンデの遺言』の1と2をまとめた映像が
YouTubeにあったので、
関心ある方はご覧になってみて下さい。
『エンデの警鐘』は、「続・エンデの遺言」の内容を
まとめた本で、坂本さんと、NHK放送総局の
エグゼクティブプロデューサー・河邑厚徳さんの対話が
最初と最後に収められているんですが、
プロローグとして冒頭に置かれている対話の方を
以下に引用しました。
(引用ここから)
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『エンデの遺言』の衝撃
河邑 実は、坂本さんに、テレビ番組「エンデの遺言」続編のキャスターをお願いしようと考えたきっかけは、2000年夏に出た雑誌 『Inter Communication』No.23(NTT出版)の企画「21世紀に残す10冊」で、坂本さんがレイチェル・カーソンの『沈黙の春』やゲーテの『ファウスト』などの世界の名著と並べて「エンデの遺言」を選ばれたことです。最初、びっくりしました。これは坂本龍一さんに会ってその理由を聞かなければと思いました。
坂本 僕は、勿論『モモ』も大好きだし何度かくり返してエンデの本を読んでいます。あの『エンデの遺言』は衝撃的で、今、僕たちが何の疑いもなく使っているお金というもの、あるいは僕たちの生活の中にある経済原理、市場原理に対して、疑いの目というか、もう一度、見てみようと思いました。それまで僕のまったく知らなかった視点なので、大げさにいえばパラダイムの転換といいますか。歴史的にも、そういうことを言ってきた人はほとんどいないわけです。ゲゼルがいましたけれども。何百年間に数人しかいないわけですから、全然伝えられてないということです。それを伝えた意義ははかり知れないのではないかと思っていますけど。
河邑 坂本さん自身は、『Inter Communication』の中のコメントで「お金のない社会の可能性」とおっしゃいましたね。そのときの一般的なお金には、何か具体的なイメージをされましたか。
坂本 やはり毎日僕たちが使っている紙幣とかコインのああいう形でのお金が、やはりそのときは頭にあったんじゃないかな。あるいはコンピュータ上の数字ということもあるかもしれないけれども。
河邑 僕は、坂本さんにはお金に対する独特の意識が昔からあったことを『EV. Cafe』の中の浅田彰さんとの対談を読んで感じました。そこで坂本さんは、お金の意味については、「関係性を顕在化させるようなお金」といった発言をされている。それはすごく示唆的だと思っていたんです。
坂本 『EV.Cafe』は、もう随分前ですよね。10年以上前ね。そんなこと言ってますか、全然忘れてますね。ただ、お金に対する考えについては、哲学者の今村仁司さんとか、経済人類学のカール・ポランニーとか、多少研究の歴史があるわけですね。それには、僕も以前から興味はもっていましたね。 貝がお金の役割を果たしたりとか、動かせないぐらい大きな石のお金とかですね。どっちかというと象徴としてのお金。それがどういう社会で、どういう役割を果たしていたかという、お金の歴史などには興味をもっていましたね。実は、お金がどうやって生まれてきたのかは、いまだに謎ではないでしょうか。一般名詞としてのお金と、ベネチアで生まれたといわれる債券としてのお金、これが資本主義の発達とともに多分、心臓部に組み込まれて発達してきたわけなのでしょうけれども、それらは少し違うように思いますけど、どうなんでしょうか。象徴としてだけ見ていってもわからないようなところがあるのではないでしょうかね、現在のシステムに関しては。
河邑 これまでにも、お金の歴史に関しての研究はいろいろ存在しますね。それぞれの文明によっていろいろなお金の形もあったし、そういう研究とか、例えば、岩井克人さんの『貨幣論』のような著作とか。坂本さんもそのような本を今までに読んでおられると思います。しかし、エンデが提示した 仕方に、そういうことは知りながらも、はっと気づかせる、何かがあったということなんでしょうか。
坂本 衝撃があったわけですね。それは何でしょうか。やはり利子ということでしょうか。あるいは エンデの考えのもとになっているゲゼルの「減価するお金」ということでしょうか。
河邑 資本として、ホット・マネーといいますか、商品としてのお金は、それほど古いことでは・・・・・・
坂本 ないですね。
河邑 エンデはそこを一番問題にしていますね。今の経済学の中で金融工学のような高等数学を使いながら、いわばお金を世界中でいろいろな形で動かしながら利潤を追求しようという学問がある。そうしたものの存在は、坂本さんなりに何らかの感想をもたれていたわけですね。
坂本 エンデも言っていると思いますが、「エコノミーとエコロジー」だと思います。われわれは有限な環境に生きていて、われわれの存在も有限である。一方、お金というのは無限につくり出せる。 信用創造なわけですけど、お金は上限がない形で無限である。その土台であるエコ、つまり自然と、その上部構造というか、人間がつくり出した観念としてのお金というか利潤といったものが完全に乖離している。どこかで限界点がくる。彼らは、こないという前提でやっているような気がします。玉野井芳郎先生ではないですけど、経済(エコノミー)も含む人間の土台である、あるいは環境であるエコロジーということを、もう組み込まざるを得ないと思うんですけど。
河邑 坂本さんは、『モモ』などを読まれて、あとでエンデの「金融システムが問題の根源にある」 との警告も読まれたわけですね。そうすると、『モモ』に出てくる「時間貯蓄銀行」とか「灰色の男たち」など、ファンタジーの登場人物に対する見方も、少し変わりましたか。
坂本 『エンデの遺言」を読んでから、また『モモ』を読み返したのですけれども、まったく変わりましたね。わかっていなかったと思う。今の経済原理とか金融システムとか、そのものをあのように比喩的に描いているのがはっきりしますね、『エンデの遺言」以降は。そして、そういう支配によって人々の生活がどうなっていくのかということもはっきり書かれていますね。まさにあそこに出てくるベッポとか、みんな僕たちの姿だというふうに思いますね。
河邑 もしかしたら、そのファンタジー作品と並んで、メッセージとして直接語っている言葉を見ていくことで、エンデにはまだまだ多くの豊かな内容があるのではないかと思っています。
坂本 ますます興味をもって、全部の著作を初期からもう一度読んでみたいと思いますね。隠れたメッセージといいますか、僕たちが見えていない部分がたくさん隠されているのではないかという気になりますね。エンデは物語をつづる人ですから、人類総体がもっているユング的な集合無意識といいますか、一種、人類学なんかでいわれる神話の部分に彼は直接触れているわけですね。彼は集合無意識あるいは神話という泉からエネルギーをもらって書いていたともいえる。そこに、つまりさっきの象徴としての貨幣と、何かつながりがあるのかなという直観もありますね。お金に対する洞察と神話的な思考に、何か彼がつかんだつながりがあるのではないか。大きな集合無意識のところに、神話的な思考のとこ ろに何かあるのではないかという気にもさせられますけどね。
河邑 『はてしない物語(ネバーエンディング・ストーリー)』は読まれていますか。
坂本 大好きです。
河邑 僕は本を読んでしばらく涙がとまらないほど感激しました。今思うと、確かにお金というのは、いくらでも印刷できたり、実体経済とかかわりなくつくり出されている、まさに「虚」的なものですよね。「実」と一番離れたものです。よく言われるのは、例えば銀行に何千億というお金があっても、それに対して自然とか物がなくなってしまったら、それはもう紙くずになっちゃうわけですね。そうすると、やはり実体のあるものというのは確かなものであるのに、お金は、実体をつなぐもののように見えながら非常に虚だと思うんです。もしかしたら『ネバーエンディング・ストーリー』も、読み方によってはそういう読み方もできるかなと考えたんですけど。
坂本 貨幣経済あるいは市場原理が地球全体を覆い尽くしていくかのように、虚がどんどん浸食してくる。その実である世界のほとんどが消えていく。ところが、虚をつくり出しているのは人間の観念ですね。お金もまったくそうですけれども。だから、人間の観念がつくり出したものは人間の観念でもう一度リセットすることもできるはずだというのが、あれのエンディングですね。
河邑 亡くなったエンデさんに勝手にこんなことを言っては申しわけないけど、もしかしたら彼の主要な作品は、絶対どこかで経済問題とつながっているのではないかなと、今、思っているんですね。
坂本 『ネバーエンディング・ストーリー』で虚をリセットするときに名づけるわけですね。名づけというのが西欧社会の根本にありますね。聖書にしても、最初から、アダムは自然を一つひとつ名づけていったわけですからね。ところが道教では、老子はすべて名前をもっているものは存在しないのだと言っているわけですね。そこが、二つの違う世界があっておもしろいなと思っています。何かの ヒントになるのかもしれないと思っていますけど。
河邑 もう一回、ちゃんと読み直したいですね。最近の坂本さんの幅広い活動を見ていて、ぜひ聞きたかったことがあります。坂本さん自身は芸術家なんですが、教養人として非常に幅広い読書家でも知られていますし、これまでもいろいろな対談をなさっている。もう少しそれを踏み越えてある種社会的な発言とか、そういうコミットメントを積極的にされるようになったのはこの10年くらいかなと思うんです。具体的にそういうことを実行なさるようになったきっかけは、なんですか。
坂本 まず一つは、40歳を過ぎて、体ですね、何か日に日に変化していく。老いていくというのかな、それを実感できるようになってきた。そうすると、われわれがもっている時間は無限じゃない、有限であることに気づかされますね。そして、それ以前よりも体が弱ってくれば、自分が食べるもの、吸う空気、飲む水、そういうものに少し敏感になるわけですね。そうすると、食べているもの、吸っている空気、飲んでいる水とかというものは、まさに環境ですよね。当然のことですけれども、自分の身体への関心が、その身体が取り入れている環境へと、一つながりで向かっていったわけです。それと、やはり次世代の子どもたちのことですね。よく言われているように、われわれの世代は本来、次世代が享受すべき資源とかを奪って、前倒しにして使ってしまっている。まだ見えない彼らの権利を奪っている。最悪が戦争だ、という視点があるわけですね。あるいは、今の僕たちの生活の消費文化を維持するために大量の国債を生み出している。これは借金ですから、未来世代がこれを払うことになる。あるいは、その未来世代から借金してくる、あるいはIMFのようにほかの機関から借金してくる。同じことですね。結局は払わなきゃいけない。これも未来世代に対して彼らの権利を奪っていることになるという意識。だから自分の身体から環境へ、そして自分の死んだ後の未来世代というような流れがあるような気がしますけれども。
河邑 よく人体はひとつの調和をもった小宇宙だという言い方がありますね。確かに、自分の身体にもひとつの環境があるわけですね。話は飛びますが、アメリカで起きた同時多発テロでは坂本さんは現場のすぐそばで、それこそ具体的な危機とか恐怖を感じられたわけですね。それ以降、『非戦』という本を出されたり、さまざまなメディアで発言されてきましたね。それと同時に、芸術家としてできる仕事も、例えばこの時代に向けて、作曲家、音楽家として坂本さんが表現しようという、そういう一つのイマジネーションをおもちですか。
坂本 テロ以降、恥ずかしいことに、随分長いこと、音楽家でありながらとても音楽を考えたり弾いたりするような頭の状態にはなれませんでしたね。やはり自分の生死がかかっているような事態になると、音楽家といえども音楽どころじゃない。もっと極端な例でいうと、やっぱり弾が飛んでくるような戦場では音楽はできないし、誰も音楽を楽しめない。音楽のことなど忘れている状態です。比喩的に9月11日に世界が戦場になったとすれば、今の世界は緊張があり過ぎて、とても音楽や文化などを楽しめる状態にはないんですが、音楽はあるのです。忘れられている状態。そこに、例えば戦場で敵、味方が銃を構えて撃ち合っているときに、真ん中に「音楽というのがあるよ」ということを音楽が訴えるわけですね。そうすると、もしかすると敵も味方もふと銃をおろして、ああ、音楽があったなと。その音楽自体が、ここに音楽があるよということを訴えているという音楽が可能なのではないか。可能でないと、人類が何千年も培ってきた音楽とか、いろいろな文化が忘れ去られる時代になってしまう。それを思い出させる音楽であり、絵画であり、芸術というものの、固有の美といいますか、人類の遺産というか、それをきっちり音楽自身に訴えさせるというか、発言させるというか、顕現させるというか、そういうことが必要なのではないかなと思っているんですけど。
河邑 これからしばらく、答えが簡単に見つからない時代が続くと思うので、とても意義深い仕事になってきますね。
坂本 そうですね。もう一つ僕が思ったことは、テロがあってアメリカの大統領がそれに対して戦争をすると。これ自体も不条理なことに僕には思えるんです。つまり大犯罪の容疑者がどこかの国にいるらしいということだけで、その国を爆撃するのはどういうことなんだろう。理屈に合わない。これが裁判だったら、負ける裁判ですよね。例えば凶悪な犯罪人は世界にいろいろいます。アメリカにもいますね。だったらほかの国がアメリカを爆撃するのか。それは同じことですね。非常に不条理だなと思います。そのような不条理な戦争を、世界に60億人いる人間が誰一人として言葉で、あるいは論理で、法で止めることはできなかった。21世紀の初めとして、とても大きな課題を突きつけられていると思います。法だけではなくて、どの宗教も哲学も諌めることができなかった、止めることができなかったわけで、非常に大きな課題を僕たちに突きつけていると思います。
※坂本龍一+河邑厚徳『エンデの警鐘 地域通貨の希望と銀行の未来』
プロローグ「エンデの遺言をどう読み解くか」より
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