〈才能〉があるとかないとか、そんなのは嘘だ(吉本隆明『15歳の寺子屋 ひとり』より②)
2023/07/14
昨日の記事では、吉本隆明さんが晩年に
4人の中学生たちに語った話をまとめた
「文を書くこと」に触れた部分を紹介しました。
吉本さんが15歳の子どもたちに
ちゃんと向き合いながら話している
雰囲気が伝わってきて、
とってもイイ感じでしょう?
児童書・絵本のカテゴリに分類されている
子ども向けの本なんですが、
吉本さんの話しぶりは
全然お説教臭くありませんし、
大人が読んでも全然大丈夫な内容ですよね。
それで、今日は本書の中からもうひとつ
とりわけ印象深く残っている
人間の才能についてのお話を。
冒頭のイラストがなぜ〝手〟なのかは、
読んでいけばわかります。
(引用ここから)
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【質問】
サラリーマンは何となくつまらなそうに見えるけど、
でも食べていくにはお金を稼がないといけないし、
たくさんお金を稼ぐには弁護士とか会計士とか
「士」のつく仕事がいいんじゃないかって
考えたりもしたけど、
それがやりたいかっていわれると、
やっぱりよくわからない。
吉本さんは、どんなきっかけで
今の仕事についたんですか?
吉本:
誰に才能があって、誰に才能がないとか、そんなことはないというのが僕の考えです。
たとえば、いい文章を書くということにしても、才能によるとか、資質によるとか、あるいは感覚がどうだとか、細かく数えるといろんな要素があるわけですが、そういうことは全部、二の次だと僕は思っています。そんなのはたいした問題じゃない。大事なのはしょっちゅうそのことで手を動かしてきたか、動かしてきていないかのちがいだけです。 これは物書きに限らず、何でもそうですよ。
要するに手だよ、手の使い方なんだよってね。何になるにせよ、手をたくさん使えば誰でもなりたいものにちゃんとなれます、そういってもいいくらいです。職人さんを見れば、わかります。染め物をやれば、余計な染料を洗って落とすために、暑くても寒くても川に入らなきゃならない。そういう作業をたくさんやれば、一人前の染物師になれる。それだけが専門家とそうじゃない人のわかれ目で、ほかのことは全部あてにならないんです。誰に才能があって、誰に才能がないとか、そんなことはない。ないと同じなんだよ。ただ、やってなきゃ誰でもダメだよ。やったら誰でもやれます。
たくさん手を動かしてると、何かやる時にひとりでに手が動いてくるということがあります。自分の手が覚えてることを、自分でもって納得できるように手を動かすことができたら、いいものができる。だから、〈量より質〉の反対。〈質より量〉ってことだと僕は思います。僕はいつでもそういう考えですね。それ以外は認めないっていうか、自分に対しても認めないできました。
じゃあ、どのくらい手を動かしたらいいのか。僕は昔っから、「十年やれば一人前になれるよ」っていってきたんですよ。「十年やって、ものにならなかったら俺の首をやるよ」ってね。十年という数字はどこから来たのかといえば、やっぱり職人さんたちを見てきたからだと思います。うちのこの親父からだといってもいいし、親父の仲間たちからだといってもいいんですけどね。
そういう自分なりのものがひとりでに身につくまでに、だいたい十年。そういうのを見てきたから、これはスポーツだろうと、音楽だろうと、何にでもいえることだと僕は確信しています。才能があるとかないとか、そんなものは認めない。そんなのは嘘だ。本当なのは、そのために手の動きをどれだけやったかということです。
才能なんてものは問題にならない。問題になるのはせいぜい最初の二、三年くらいのもので、十年経ったらそんなことは全然問題じゃなくなるぜ。結局は手の問題なんですよ。手が知ってる。手を動かしてると、二、三年は同じでも、十年経つとその人らしさというのかな。 その人にしかできない表現というものが必ず出てくるものなんです。だから、みなさんも「自分には特別な才能がないかもしれない」なんて悩むことはないんです。なんだっていいから、やってみりゃぁいい。そうすると、自分でも思ってもいなかったところがだんだん底光りしてくる。
実をいうと、僕もそれを頼みにしてやってきたんだけど、ちっとも出てこないんだ、この底光りってヤツが。人生も残り少なくなってきたし、こりゃもうダメかなって思うけど、でも「じゃあやめるか」っていわれたら、やめることだけはなんとなくできない。なんでかっていえば、もう手がいうこときかねえよってことがあります。ほかのことやれっていわれても、この手でほかのことができるかよってくらいになっちゃってる。ずっと手を動かすっていうのは、つまりそういうことでもある。
手を動かしてみな。手があなたのダメなところも値打ちも全部ちゃんと知ってるよ。才能があるかどうかなんてことはわからなくっていい。ただ、ひたすらに手を動かしてさえいれば、自分のなんともいえない性格とか、なんともいえない主義とか、なんともいえない自分なりの失敗とかがんばり方とか、そういうものがひとりでに決めていくものがある。そうして決めていった挙げ句のものが、<才能>であり<宿命>なんだと僕は思います。
逆のいい方をすると、自分の生涯の終着点みたいなものは、あらかじめ決めない方がいいですよ。決めたところでその通りにはならないし、運命があたえてくれるものが戦争であったり、平和であったり、それぞれの時代にそれぞれのものがやってくるだろうけど、それは受け取るだけ受け取った方がいい。受け取ったあとで、どういうふうにそれと向き合うかっていうのが、それぞれの人の「生きる」ってことなんだと思います。
※吉本隆明『15歳の寺子屋 ひとり』二時間目「才能って何だろうね」より
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(引用ここまで)
ところで、為末大さんが昨日7/13に
出版されたんですが、
facebookの個人ページに、本の内容について
次のようにコメントされていました。
100年先の人が読んでも
納得感があるものにしたいと思って書いたので、
今の時代を意識しないようにしていました。
でも、本を書いている間に意識せざるをえなかった
現代社会が抱えている3つのテーマのひとつに
テクノロジーの問題があります。
AIとロボットの急激な進歩により、
人間にしかできないことはなんなのかが
問われています。
客観的に測定できるアウトプットに関しては、
おそらく全ての領域で
人間は勝てなくなることでしょう。
たぶん、勝つという概念自体もなくなって、
私たちの社会にテクノロジーが溶け込んでいくか、
または私たちがテクノロジーの発展に
溶け込んでいくのかもしれません。
人間に残された領域は、身体を介した
主観的体験だと考えています。
自分の身体を介して外界に触れ
うまく適応し、
それによって変わり成長していく自分自身を
観察すること、
これらに喜びを見出していくことでは
ないでしょうか。
つまり夢中で何かを探求する喜びです。
この、為末さんの
人間に残された領域は身体を介した主観的体験
という言葉が、
吉本さんの
要するに手だよ、手の使い方なんだよ
って言葉と重なりました。
AIやコンピュータは、
人間の脳のはたらきを外在化させたものですから、
コンピュータにできなくて
人間にできることとは何かと問えば、
為末さんが書かれているとおり、
身体を通して外界に触れながら
成長していく自分を観察し、
探究していくことであり、
結局のところそれが
〝今を生きる〟ということになるでしょうから。
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