唯女子與小人、爲難養也(『論語』陽貨第十七の25 No.459)
2023/10/17
今日は久しぶりに論語499章1日1章読解から。
前回9/9に投稿した記事に、
それまでの論語関連で書いた記事の
INDEX を作成してあります。
、
過去記事を参照されたい方は
次の記事から最初にご覧ください。
・君子有九思、視思明、聽思聰、色思溫(「論語499章1日1章読解」より)+INDEX
さて、今日の論語は、孔子が499章のうち
ただ一つ女性について言及している
陽貨第十七の25番(通し番号459)です。
「孔子は女性蔑視している!」と
あまり評判の良くない章なんですが、
孔子が語った言葉の文脈に対して
自分から身を投じ耳を傾けようとするのでなく、
書かれた内容を
自分の手元に引き寄せ解釈してしまうと、
そうなってしまうんじゃないでしょうか。
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【陽貨・第十七】459-17-25
[要旨(大意)]
(高貴な)女性と小人は、養うのが難しいと孔子が述べている章。
[白文]
子曰、唯女子與小人、爲難養也、近之則不遜、遠之則怨。
[訓読文]
子曰ク、唯女子ト小人トハ、養ヒ難シト爲ス、之ヲ近ヅクレバ則チ不遜ナリ、之ヲ遠ザクレバ則チ怨ム。
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、唯(ただ)女子(じょし)ト小人(しょうじん)トハ、養(やしな)ヒ難(がた)シト爲(な)ス、之(これ)ヲ近(ちか)ヅクレバ則(すなは)チ不遜(ふそん)ナリ、之(これ)ヲ遠(とお)ザクレバ則(すなは)チ怨(うら)ム。
[ひらがな素読文]
しいわく、ただじょしとしょうじんとは、やしないがたしとなす、これをちかづくればすなわちふそんなり、これをとおざくればすなわちうらむ。
[口語訳文1(逐語訳)]
先生(孔子)が言われた。「まことに女子と小人というものは養うのが難しいものである。優しく近づけると無礼になり、疎遠にして冷たくすると怨まれてしまう。」
[口語訳文2(従来訳)]
先師がいわれた。――
「女子と小人だけには取り扱いに苦労をする。近づけるとのさばるし、遠ざけると怨むのだから」(下村湖人『現代訳論語』)
[口語訳文3(井上の意訳)]
高貴な女性と小人を養っていくのは厄介だ。親しくするとつけあがるし、かといって放置すると怨まれる。
[語釈]
唯:限定を表す語だが、孔子がやっかいと感じていたのは女子と小人だけとは限らないので、ここでは「まことに」「実に」と訳すのが適切か。話を転換させる接続詞に解し、「これ」と読んで「ところで」と訳すことも可能。
女子:当時の中国で「子」は高貴な身分の男性や先生を意味した。したがって、女性と子どもという意味ではなく、「小人」と語呂、語調を合わせるために付けられた意味のない接尾語として、「女子」の二字で女性一般を指すとするのが伝統的な解釈であるが、妾や身分の低い女の使用人を指すとしたり、高貴な身分の女性とするなど諸説あり。
小人:伝統的な解釈では、「君子」と対比させて用いる語であるが、ここでは「身分の低い人間」「奴隷」を指すという説あり。
則:ここでは、接続の助字で、「~ならば~である」「~すれば必ず~する」などと訳す。
不遜:「遜」は控えめなさまを表すので、思いあがって傲慢なようす。
怨:押さえつけられて内に籠もったうらみを言う。(←恨む)
[井上のコメント]
現代日本に生きるわたしたちが本章を読むと、孔子の言葉に男尊女卑の考え方や差別を感じてしまうのですが、厳しい身分制度があり差別がアタリマエに存在していた当時の中国の社会背景を踏まえて読む必要があるでしょう。ただ、[語釈]に記した通り、本章には「女子」をどう捉えるかでさまざまな解釈が存在し、どれかに特定するのは難しいようです。たとえば、下村湖人は女子を「婢妾」と解しているのですが(参考に注釈文を引用しておきます)、わたしは、気位が高くて扱いにくいという意味で、「高貴な身分の女性」を指すのではないかと読みました。なぜなら、小人というのは性別が関係なく、妾や使用人の女性という風に、敢えて小人と区別して記す必要性がないからです。孔子は家族のことを、外向けにはほとんど語らなかったというのは事実のようですし、論語の中で女性のことに言及しているのが本章だけしかありません。そんなところから、「孔子は女嫌いだった」とか「孔子の妻は悪女だった」という説まであるようですが、それはちょっと言いすぎではないでしょうか。笑 あと、宇野多美恵さんがまとめられた相似象会誌の別冊『感受性について(補遺1)』「つきつめるということ」には、論語について言及している部分が多くあり、その中から本章に関連して書かれている箇所を読みナルホドとおもったので、そのまま引用してご紹介します。
[参考]
・「女子と小人は養いがたし」は、あまりにも有名な言葉で、孔子は論語の中にこの一句を残すことによつて、後世からその女性観に痛烈な批難をあびている。
ところで、この批難は実は多少酷である。というのは、古来の論語学者の解説が正しいとすれば、ここにいう「女子」は婢妾を意味し、「小人」は下僕を意味するからである。
もし孔子が、「女子」という言葉を用いて広く一般の女性を指し、「小人」という言葉を用いて道徳的に低劣な人間を指していたとすれば、なるほどこの一章は女性に対する大なる侮辱であり、孔子の極度に封建的な女性観を物語るものであつて、いささかも辯護の余地がない。
況んや論語の全篇を通じて、孔子が女性を正面から問題にしたのはこの一章以外にはなく、これだけがその女性観を物語る材料であるにおいておやである。
しかしもし諸学者の解説の通りだとすれば、少くとも女性の問題としては、この一章をさほど重大視する必要もあるまい。もしこの一章に問題があるとすれば、むしろ孔子の婢僕(男女にかかわらず)に対する封建思想にあるのではあるまいか。
しかし、だからといつて、私は孔子の女性観が本来正しいものであつたとは決して信じない。元来孔子は父権時代、一夫多妻時代に生活して、その社会組識に何の疑いも抱いていなかったし、女性の向上の重要性というようなことについて真剣に考えて見たこともなかったのである。
もし孔子が女性について何か考えていたとすれば、それは、女性は常に悪の根元であり、士君子にとつて最も警戒すべき対象である、というぐらいなことに過ぎなかったであろう。
従つて孔子の女性観が今日批難の的になるのはやむを得ない。ただ私のいいたいのは、本章の一句だけをとらえて孔子の女性観を判断するのは誤りであるということである。(下村湖人『現代訳論語』より)
・孔子の言葉のなかで、論語なぞ読んだことの無い人々でも知っていて、しかもその一言の為に、毛嫌いされている言葉がある。殊に明治維新以後の文明開化、男女同権思想の人々から忌避され、又最近の、孔子を再評価し、論語の章句をしばしば引用している学者知識人からも、これだけはいただけないと非難されている言葉があることに、ここで触れておかねばならない。
それは、「女子と小人は養い難しとなす」(陽貨第十七)である。この言葉に対し、ズバリ解答を言えば、筆者は孔子の言葉を信受する、ということである。筆者の第一の師は、(市川房枝等の師であったが、)塾生に『私たち女は、この孔子の言葉を、虚心に(邪念なしに)聴いて、自分をよく反省しよう』といましめてくれた。今、筆者もまた、素直にそう思う。
孔子は、女と小人は養えないといっているのではない。「養い難し」というのである。養い難しとは教えることが難しい、とり扱い難い、度し難い(救い難い)という意味である。そして、そのことを、孔子は「之を近づくれば則ち不遜なり、之を遠ざくれば則ち怨む」といっているのである。近づけてやさしくすればすぐにつけ上り、きびしく遠ざければたちまち怨むのは「小人」である。これはおそらく孔子の実感であり、小人の弟子たちへのいましめであった。理屈をいえば、「小人は養い難し」とだけ言えばよいことである。そうすれば、孔子も毛嫌いされたり非難されることも無く、『孔子の妻はよほど悪女だったのだろう』とまで言われることは無かったのである。「女子」という一言をつけ加えたばかりに大きなダメージを与えることになった。
しかし今筆者は、生命のサトリ(サヌキ・アワの物理)を通して、孔子が「女子と小人は」といった気持を領くことが出来る。なぜなら、やさしく近づけられるとすぐにつけ上がり、きびしく遠ざけられると怨むのは、女子であろうが男子であろうが、「小人」であるが、女子はアワの性であり、感情が多いから、小人になりやすいのである。
「女子と小人」の一言で、あとの言葉をよく聴きもせずに『孔子は女をバカにしている』と、目クジラを立てたり、『孔子にこんなことをいわれた』と傷ついたりしているスガタが、とりも直さず「養い難い」といわれる証拠であろう。女性が、自己のアワ性の鍛練を忘れ、低次のアワのまま、低次のサヌキを出すことほど、困る〈養い難い〉ものは無い。孔子は、世の思想家のように、神秘思想におもねることなく、女性にもこびることも無く、又、母性に陶酔することも無く、真実を直言している。その勇気〈その器、則ち波動量の大きさ〉を、筆者はここでも改めて感じるのである。(宇野多美恵『感受性について(補遺1)』より)