「〝教えない〟性教育」考(その12)
2023/11/17
11/6より教えない性教育をテーマに
記事を書き始め、本日分が12回目となりました。
これから書こうとしている記事は昨日の続きで、
これまで投稿してきた記事には、
なぜ〝教えない〟性教育なのかであるとか、
どういう文脈で推薦しているのかとか、
モトになる考え方や背景などを記しているので、
これまでの投稿に未読記事がある方は
適宜参照された上で
本日分の記事を読んで下さると有難いです。
さて、(その5)からは、
〝教えない性教育〟を実践しようとする際に
わたしが推薦するに値すると考える
参考図書などの情報素材を紹介しています。
子どもたちに性教育が必要だと
考える大人たちは少なくないのですが、
では、わたしたち自身が、
子どもたちに教えられるような性意識を
備えているのかと問われたときに、
自信を持って「イエス」と答えられる大人が
残念ながらほとんど居ません。
そうした現状を鑑みると
性教育が必要なのは、子どもたちよりもまず、
わたしたち大人なのかもしれないわけですし、
このような見方は、
なぜ、〝教えない〟性教育なのか、
それを実践する意義や必要性を考えるうえでの
非常に重要なファクターだと感じています。
そして、こんなふうに現代日本人の性意識が
ヘンにねじ曲がったものに
なってしまった原因の一つは、
江戸幕府が倒れて明治となったときに、
欧米に追いつけ追い越せと
近代化を急ぐあまり、
江戸期以前の日本人が大事にしてきた
生活様式をかなぐり捨てて
外来の思想や習慣を無理に
採り入れようとしたことにあるのではないかと。
それで、一昨日(その10)では、
幕末から明治初期の時代に日本を訪れた外国人たちが
書き残した文章を素材に江戸期以前の日本人の姿を
浮き彫りにしようとされた
渡辺京二さんの『逝きし世の面影』を。
また、昨日の(その11)では、
YouTube動画・落合陽一さんのチャンネルで、
先崎彰容さんがゲストスピーカーとして招かれた際の
動画をご紹介しました。
夏目漱石は「上滑りの文明開化」と
評していたんですが
結局、アメリカ人にとっての〝個人〟という概念は
宗教や自然という大きなバックボーンが
存在しているけれど、
明治維新のときに、それまでの世間的な人間関係を
温存したままで、「社会」「個人」といった言葉を
ただ表面的に輸入しただけだった日本人には、
その裏付けがまったくないわけです。
さて今日は、なぜ春画がひと目を憚るもの、
声を潜めて語らなければならないもの、
罪深いもの、淫靡で卑猥な恥じるべきものに
なってしまったのか、
明治になってから
西洋から持ち込まれたキリスト教的道徳観とは
どういったものなのかを知る参考図書として
吉本隆明さんの『マチウ書試論』を
紹介しようとおもいます。
(引用ここから)
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「諸君は、『おまえは姦通してはならない』と言われているのを知っている。然し、わたしは諸君に言う。渇望をもって女性をみるものは誰も、既にこころのなかで彼女と姦通を行ったのである。若し、右の眼が諸君にとって、さてつの原因であるならば、それをえぐり取って遠くへ打棄れ。なぜなら、諸君にとって肢体のたったひとつが無くなり、五体がゲアンに投げ込まれないことは、ましなことだから。また、もし右の手が諸君にとってさてつの原因であるならば、切りとって遠くへ打棄れ。何故ならば、肢体のたったひとつがなくなり、五体がゲアンに行かないことは、ましなことだから。」
この性にたいする心理的な箴言は異常なものである。渇望でもって女をみるものは既に心のなかで姦通を行ったのだという性に対する鋭敏さは、けっして倫理的な鋭敏さではなく、病的な鋭敏さである。姦通してはならないという掟は、ユダヤ教の概念では、倫理的な禁制としてあるわけだが、原始キリスト教がここで問題にしているのは、姦通にたいする心理的な障害感覚であることは明かだ。こういう障害感覚を、原始キリスト教は、迫害や秩序からの重圧感に裏打ちされて体験したために、性に対する障害感覚のなかに拡大されて表出されたのである。徹頭徹尾、自意識を倫理化しようとする原始キリスト教の倫理感覚は、人間性の自然さというものに脅迫を感じ、それに対し戦いをしかけなければならなかったのだ。この性についてのマチウ書のロギアは、けっして倫理的なものではなく、むしろ本当は倫理感の喪失以外のものではないのだが、もしこのロギアを倫理的なものとして受感するならば、人間は、原始キリスト教によって、実存の意識の全領域を脅迫されるよりほかないだろう。罪という概念を心理的に最初に導入してみせたのは、原始キリスト教である。したがってマチウの作者は、このロギアを倫理的に受感することを求めているのだ。もし、ぼくたちがその受感の型を拒絶するならば、右の眼が女性にたいする渇望をおこさせる原因であるならばそれをえぐりとれと言うような言葉を精神病理学における一つの徴候としてしか読みとることが出来ない筈である。モオリヤックはその著『イエスの生涯』のなかで、「この新しい戒に対し1800年後の今日なお人々は反抗し嘲笑しふりおとそうとむなしい努力を続けるが、これをその肉体からもぎとることは出来ない。キリストが口を開いて語って以後、このくびきを受け入れる者のみが神をみいだすだろう。」と述べているが、空々しいと言うよりほかない。神学者や文学者がジェジュの生涯をどのように創作しようが、それは勝手であるが、人間は性的な渇望を、「その肉体からもぎとることは出来ない」のではない。逆である。人間は性的渇望を機能としてもっているのだ。ぼくたちが、このロギアに反抗し、嘲笑するのは、原始キリスト教が架空の観念から倫理と、くびきとを導入しているからである。前提としてある観念が、障害感覚と微妙にたすけあい、病的にひねられ、倒錯していて、人間性の脆弱点を嗅ぎ出して得意げにあばき立てる病的な鋭敏さと、底意地の悪さをいたるところで発揮している。
すこしあとのところで、全然誓いをしてはならない、髪の毛のたったひとすじも、諸君は白くしたり黒くしたりできないのだから、などと言う言葉がでてくると、ジェジュを3度否んだピエルや、ジェジュを裏切ったジュドなどという架空の人物をつくりあげ、それらの人物に、人間のいいようのないみじめさや、永遠の憎悪を集中した原始キリスト教の冷酷さをおもい出さないわけにいかない。人間性の暗黒さに対する鋭敏な嗅覚と、その露出症こそは、原始キリスト教のもっとも本質的な特徴のひとつである。かれらは、人間性の弱さを、現実において克服することのかわりに、陰にこもった罪の概念と、忍従とをもちこんだ。「悪人に抵抗するな。若し右の頬を打つものがあったら、またもう一方の頬をもさし出せ。」もしここに、寛容を読みとろうとするならば、原始キリスト教について何も理解していないのとおなじだ。これは寛容ではなく、底意地の悪い忍従の表情である。「諸君は断食するとき、偽善者のように悲しい様子をするな。彼らは断食することを人に示すために、顔色をそこなうのだ。」断食して、悲しい様子をするのは偽善者ではない。自然者である。それを、頭に香油をぬり、顔を洗えと言うほうが偽善者であろう。ニーチェのように、ちいさな不徳について大騒ぎをやらかす侏儒どもといってしまえばそれまでだが、急いこんで命令しているロギアに、どれひとつとして自然さがない。
※吉本隆明『マチウ書試論・転向論』(講談社文芸文庫)より
それにしても、
「心の中でエッチな想像をするだけでも、
実際にしたのと同じことだ。
右目がエッチなものを見ようとするなら
えぐって捨てろ。
罪を犯して地獄に行くより、
右目を失っても天国へ入る方がいいだろ?」
ってすごい表現ですよねぇ〜
この続きはまた明日に!