二村ヒトシさんの「性や恋愛を考える」哲学対話に行ってきました(その4)
2023/12/19
昨日投稿した記事の続きです。
12/9に名古屋で行われた、
二村ヒトシさんがファシリテートされた
哲学対話イベントの参加レポートなんですが、
これで4回目になりました。
といっても、(その1)(その2)の記事は、
ほぼ前段の話だけで終わっていて
ほとんど中味に触れていないんですが、
それまで書いてきた記事との関連性も
意識できるように流れをふりかえった上で、
哲学対話の概要とルールについてだけ書いています。
「対話」関連でこの寺子屋塾ブログにで
過去に書いた記事内容の主なものを整理したり、
12/14以前まで書いていた記事との
関連性について確認したりしました。
また、昨日書いた(その3)の記事でようやく
12/9のイベントの中味に
ようやく少しだけ触れられたんですが、
企画の背景として読書会・猫町倶楽部のことや
安本志帆さんがファシリテートされた
2019年の哲学対話のことに触れつつ、
哲学対話の具体的な進行方法や
12/9のイベントでの出来事や
やりとりされた内容について書きました。
12/9についてのレポートは本日分の記事で
何とか区切りを付けたいと考えていますが
(その1)(その2)(その3)を未読の方は、
以下の記事を読まれる前に、
まずそちらの方からお読み戴けると有難いです。
さて、いまこのblog記事を読まれている方で、
哲学対話を実体験されている方は
どれほどいらっしゃるかは
わからないんですが・・・
これまでの記事を読まれて、
哲学対話って、どんなスタイルで、
どんなルールのもとで、何をやるのか、
多少はイメージをもって頂けたでしょうか?
それで、本日分の記事の本題です。
わたしの場合、寺子屋塾の教室という
対話の場を長年にわたって運営していることや
講座や研修といった場で
ファシリテーター役を務めることが
すくなくなかったことから、
哲学対話のようなイベントに参加すると、
やり取りされる話の内容よりも、
その場の雰囲気や進行方法といった部分に
つい関心が向いてしまうんですが・・(^^;)
今回も、二村さんのファシリテートについて
わたしがナルホドとおもったことが
ひとつあったんですが、
それについては後回しにするとして、
哲学対話の具体的な中身を
もうすこし書いておこうとおもいます。
たとえば、昨日の記事では、
・つきあっていた彼女から「重い」と言われて
フラれたことがあります。
そのとき自分はその言葉に納得したんですが、
皆さんにとって「重い」ってどういうことですか?
って問いが出されたって紹介しましたね。
(その1)で確認したように、哲学対話では
1.人の話を聴く
2.考える
3.自分が考えたことを話す
4.問う
の4つについて進めていくわけです。
それで、12/9の当日、
この問いからスタートして
やり取りされた具体的な内容を
かいつまんでご紹介すると次のような感じでした。
・恋愛で「重い人」というのは
「自分がない人」のことなのかもしれない
・重いとなんでいけないんだろう?
・『重い』って言うんなら『軽い』なら良いの?
・そもそもその『重い』って性格?雰囲気?発言?
態度?・・いったい何を指して言ってるの?
・『重い』は相手への寄りかかり具合、依存度?
・「重い」は束縛が強い、要求が激しいとか
気分にムラがあり過ぎるってことでしょうか。
・「軽い」=チャラい、みたいな印象だし難しい。
私だったら、多少は重くても重すぎないくらいが
良いって感じるかな?
・私がどんなに理不尽なことをしても
私のことを嫌にならないとか、
こんなことしたら100年の恋も覚めるような
ことをしても好きでいてくれるとしたら
それは尊いけれど重いと思ったことがありますね。
・もしかしたら「重くなる」のは、
相手と関係なくて、自分の感じ方の問題なのでは?
・『重い』≒『面倒』って、恋愛につきものなの?
面倒じゃない恋愛ってないの?
・相手が「早い」「重い」ということは、足並みを
自分に揃えてくれてない
(こっちをちゃんと見てくれてない)ってこと?
・好きという気持ちや伝え方の強弱って、
個人差もあるし、一人の人間のなかでも、
時期や日によって違うでしょ?
だから、そのバランスで、重い、軽いが相対的に
決まってしまう面はあるかな。
・・・といったような感じなんです。
つまり、哲学対話の場というのはこんなふうに、
問いかけからスタートするといっても、
その問いについてみんなで討論して
最終的に何らかの結論を出すことが
目的ではありません。
その場に出された各々の意見について
良し悪しを判断したり、
賛成か反対かを述べたりするわけではなくて、
途中でまとまりのないことを話したり、
何を話してるのか
わからなくなったりしてもかまわないというか、
場合によってはそれまでの話の流れを
ガラッと変えてしまうような発言も、
OK!なんですね〜
相手の言葉がわからなかったときは
「それってどういうことなんですか?」って
問いを投げかければいいわけで。
でも、だからといって雑談ではないんですね。
発言したい人は挙手し、
コミュニティボールを持っている人しか
話せないというルールがあるので、
その場にいる人たちが、
好き勝手なことを
話し始めるということにはなりませんから。
対話というのは、議論・討論ではなく、
かといって雑談というか
戯れのオシャベリでもない
コミュニケーションなわけです。
12/9の場合、中学生の男の子がひとり
参加していたということを書きましたが、
その彼がまったく物怖じすることなく
他の大人の人たちと対等に
言葉をやりとりしていたことや、
「恋愛って〝宝探し〟なんですね」って
発言があったことは強く印象に残っていて、
そういう新たな発想や気づきを生む場というか。
それで、前記したように
12/8の哲学対話での二村さんのファシリテートで
わたしがナルホドとおもった手法が
ひとつあったので
それについて書いておこうかと。
それは、哲学対話のやりとりに入る前に
前半戦と後半戦に区切り、
参加者全体を2つのグループに分け、
円形に座っているイスを1つおきに前後にずらし、
挙手し発言できる人を前に座った側にして
交替しながら進めるやり方です。
今回のような、20名というような
多人数で哲学対話を行う際などに
「ああ、これは使えるな」っておもいました。
しかも Sli.do のスマホアプリを活用すれば、
後ろ側に座った人が発言したくなったときには、
スマホの方に書き込むようにすれば、
リアルタイムにその場では発言できなくても、
テーマのやり取りには参加できますし。
たとえば、わたしが4年前に
(その3)の記事で紹介した
安本志帆さんがファシリテートされた哲学対話に
参加したときに感じたことで、
その時は、たしか参加者数が29名だったんですが
もちろん、ファシリテーターの安本さんが
だれがどんな内容の発言をしたのか、
いま、何がテーマになっているのかを
適宜介入して確認しながら進めていくんですが、
29名となるとその流れを追っかけていくだけでも
なかなかタイヘンなんことなんですね
さて、それで、
なぜ、いまこうした対話的コミュニケーションが
必要なのかについて、
この記事で続けて書くとなると、
あまりにテーマが大きすぎるので、
機会を改めてとはおもっているんですが、
もし、その辺りに関心ある方は、
次の書物などをご覧になってみて下さい。
中原淳&長岡健『ダイアローグ 対話する組織』
中原淳『話し合いの作法 対話と決断で成果を生む』
また、最近では、こうした哲学対話を教育現場に
採り入れようとする動きもありますので、
外部リンクになりますが、
その辺りについても参考になりそうな記事を
2つほどシェアしておきます。
【参考記事(外部リンク)】
・「哲学対話」先生と生徒が共に考えるアクティブラーニングな授業
・考える力・聞く力を育てる「哲学対話」とは? 授業に取り入れる学校も
この続きはまた明日に!
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