ボランタリーな人間はいかにして育つか(つぶやき考現学 No.34)
2024/03/19
今の自分で満足し
変わることを恐れている人の多くは、
今までの自分にできていた範囲のことだけ
やろうとしがちですから
すすんで新しいことをしようとはしません。
だから、ボランタリー(自主性)とは、
どんな自分でも幸せと感じられるゆとりと
決して今のままでは満足しないという
固い決意の狭間から
生まれるものなのかもしれません。
つまり、今のままで幸せと感じられることとは、
どんな自分もそのまま丸ごと
受け入れられることであって、
変わることを拒否し
今のままで満足してしまうこととは違うのです。
もちろん、今のままで
満足しているわけではないからといって、
この先に今より幸せになれるかどうかは
わかりませんし、
より大きな幸せを目指しているわけではないのです。
今のままで幸せであることを感じつつ
どう変わってもすべてOKと
日々刻々と変わっていく自分を楽しめるような
気持ちの余裕を持てるかどうかが
大事ではないかとおもうのです。
もし、自ら自主性を発揮し
すすんで物事に取り組もうとする人間、
自ら課題を発見し、
自ら解決できるような人間が
育ってほしいと望むならば、
教育者自身がこのような余裕を
どれだけ持てるかに
かかっているのではないでしょうか。(1996.1.10)
※井上淳之典のつぶやき考現学 No.34
COMMENT:
「自分で決めて、自分でやる」というのが、
寺子屋塾で採用しているセルフラーニングという
学び方の大事な要素なので、
「自主性」「ボランタリー」という
テーマについては
かれこれ30年以上考え続けてきました。
この詞は、わたしが寺子屋塾を始めて
間もないタイミングで書いた詞ということもあり、
もう随分昔のものですから、
もし、いまのわたしが
「ボランタリーな人間はいかにして育つか?」
という問いについて書くとするなら
まったく違った内容になるのは間違いありません。
ただ、そうであっても、
この古いつぶやき考現学を
ナンバリングして敢えて残している理由は、
そもそもボランタリーな人とは
どんな人のことを言うのか、であるとか、
自主性とは何なのか考えたり、
教育者としての関わり方など、
そうした諸々のことについて問いを立てたり、
対話を始めたりするきっかけには
なるんじゃないかとおもっているためです。
また、この詞で言及している
「自主性」であるとか、
「自己責任」であるとか、
「自己肯定感」といった言葉の中味は、
そもそも自己と他者の関係性を
どう捉えるかで大きく変わってくるので、
個別の具体的な話を挙げることなしに、
抽象的に一般論を展開しようとしても、
おのずと限界があって、
最近では「自主性」とか「自発性」という
言葉自体をあまり使いません。
そうした見方、考え方を踏まえた上で
現在のわたしが考えていることを
すこしだけ付け加えさせて頂くなら、
この詞の一番最後のパラグラフに
自主性を発揮し
すすんで物事に取り組もうとする人間、
自ら課題を発見し、
自ら解決できるような人間とあるんですが、
人間というのはだれもが
もともとそういう力を持っているものだと
考えるようになりました。
よって、そうした人間像を
目指すべき目標、理想として掲げ
どうしたらそのようになれるかについて
考えようとするよりは、
もともとそうであるにもかかわらず、
その力を発揮させないようにしているものが
何であるかを考え、
そのように邪魔をしているものの除去や
その影響を受けないようにすることの方が
得策なんじゃないかと考えている次第です。
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