寺子屋塾

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(その1)

お問い合わせはこちら

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(その1)

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(その1)

2024/07/11

今日は本の紹介記事を書こうとおもいます。

 

まず、本の内容などの具体的な話に入る前に、

わたしがなぜ

この本を選んだかという前提の話を少し。

 

寺子屋塾で採用している

セルフラーニングという学習法は、

学習プロセスにおいて、

自分という人間を観察し、知ろうとする姿勢を

大事にしているという特徴があります。

 

言い換えれば、何を学ぶかより前に、

自分で学ぶ力を身につけることの方が

優先順位が高い重要な課題と想定しているので、

そこから先にやってみませんかっていう

ひとつの提案でもあるんですが。

 

わたし自身もそうでしたが、

多くの人にとって学習というのは、

人から強制されてやる習慣、

褒められたり叱られたりしないと

やれないような習慣が

身に付いてしまっている人も少なくないようで、

そうであれば、誰からも強制されない環境下で、

1日1枚のプリントを

自分で決めてやり続けようとするのは、

それなりに価値のある

チャレンジなのではないかと。

 

人から教えられ

人からやらされる学習ならば、

その結果をすぐ人のせいにしがちであっても、

すべて自分の裁量で

どうにでもなる条件下であれば、

答え合わせを含め30分以内で終わるような

プリント1枚の学習ができない理由を

人のせいにはできないので、

結果的にそのことで、自分自身と向き合い、

常に自分自身を観察しようとする

もう一人の自分が育っていく

可能性があるわけなんですが。

 

先般講義録を紹介した響月ケシーさんは、

動画「現実創造の掟」で

「自分自身の見張り役になる」って

言われていましたし、

それだけでもできるようになれば、

人間は十分幸せになれるんだとも。

 

畢竟、自分は何を学びたいのか、

自分にとって必要なことは何なのか、

どういう学び方が合っているのかなど、

そうした問いの答は、

あたりまえの話ではあるんですが、

外の世界を探しても

たいてい正解は見つからないし、

自分自身の内側を見る以外に方法はありません。

 

でも、何らかの大きな壁にぶち当たるという

体験でもない限り、

そのことの大切さに自分で気づいて、

自分で実践できるような人は

ごく少数でしかないということも

20代の頃から長年教育の仕事に携わり、

たくさんの人と関わってきたことで、

だんだんわかってきました。

 

なぜなら、わたしたちは

物心つく頃から、自分が好む好まざるに関わらず、

さまざまな知識や情報を植え付けられ、

既にまわりから刷り込まれてしまっています。

 

ただでさえ情報量が多いいまの時代、

その情報の多くが

商業主義的なバイアスや

政治的な力関係と無縁ではあり得ないのに、

そういうものをアタリマエのものと見なし、

疑問におもう余地すら

与えられないという状況が普通でしょう。

 

自分にぴったりの学び方や、

個別固有の学習テーマに

たまたま巡り会えた人はラッキーでしょうが、

そういう人はほんのひと握りでしかなく、

自分という人間を知らずして

目の前にやってきたことを

手当たり次第に学んだところで、

多くの場合は、

手段と目的を取り違えてしまうような

ちぐはぐなことになってしまったり、

成果に結びつかない努力を繰り返したり、

苦難の道を強いられることになりかねません。

 

 

さて、少しずつ本の中身に入っていきましょう。

 

2022年6〜7月にNHK土曜ドラマで

5回にわたって放映された

平野啓一郎さん原作による

『空白を満たしなさい』という連続ドラマが

ありました。

 

そのドラマで示されていた

私という人間の捉え方が

「分人主義」というもので、

原作者・平野さんが、

講談社現代新書で2012年9月に

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

というタイトルの著書を出版されています。

 

アマゾンのページに示された本書のサンプルで、

まえがきと目次、1章の冒頭部分を含む

24ページまで読むことができるんですが、

本書のまえがきに、内容の骨子が

端的に示されていました。

 

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本書の目的は、人間の基本単位を考え直すことである。

「個人」から「分人」へ。
分人とは何か? この新しい、個人よりも一回り小さな単位を導入するだけで、世界の見え方は一変する。むしろ問題は、個人という単位の大雑把さが、現代の私たちの生活には、最早対応しきれなくなっていることである。

 

日本語の「個人」とは、英語の individual の翻訳で、一般に広まったのは明治になってからである。しばらくは「一個人」と訳されていた。
individual は、 in + dividual という構成で、 divide (分ける)という動詞に由来する dividual に、否定の接頭辞 in がついた単語である。individual の語源は、直訳するなら 「不可分」、つまり、「(もうこれ以上)分けられない」という意味であり、それが今日の「個人」という意味になるのは、ようやく近代に入ってからのことだった。
日本人は、この概念を西洋から輸入したわけだが、「個人」という日本語からは、「分けられない」という原義を感じ取りにくい。そんなふうに考えてみたことがなかったという人が大半だろう。しかし、私たち「個人」の抱える様々な問題は、実は、この見えなくなっている語源にこそ隠されている。
個人は、分けられない。これは、人間の身体を考えてみるならば、当たり前の話だ。一人の人間の体は、殺してバラバラにしない限り、分けることができない。そのたった一つの体———実体として存在している個人に、「森林太郎」だとか、「川端康成」といった名前がそれぞれついている。
では、私たちの人格はどうだろう? 体と同じように、分けることができない、唯一のものなの だろうか? 当然じゃないか!と、これまでは考えられてきた。私は私、あなたはあなただ。体と同じように、その境界ははっきりしていて、色々なことを感じたり、考えたりしている自分は一つだ、と。

 

しかし、本当にそうだろうか? それは、私たちの実感と合致しているだろうか? 頭をまっさらにして、人間関係を観察していると、どうもそうじゃないんじゃないかという疑念が湧いてくる。
たとえば、会社で仕事をしているときと、家族と一緒にいるとき、私たちは同じ自分だろうか? あるいは、高校時代の友人と久しぶりに飲みに行ったり、恋人と二人きりでイチャついたりしているとき、私たちの口調や表情、態度は、随分と違っているのではないか。
それはそうだ。人間には、色んな顔があるのだから。そう言われるかもしれない。
このことと、人格はただ一つ、という考え方とは、矛盾しているだろうか? 恐らく多くの人は、矛盾しないと答えるだろう。人間は確かに、場の空気を読んで、表面的には色んな「仮面」をかぶり、「キャラ」を演じ、「ペルソナ」を使い分けている。けれども、その核となる「本当の自分」、つまり自我は一つだ。そこにこそ、一人の人間の本質があり、主体性があり、価値がある。
こうした人間観は、非常に強固なものである。私たちは、ウラ・オモテがある人間を嫌うし、本音と建前を使い分けるのを日本人の悪習だと考える。八方美人というのは軽薄な人間の代表で、何よりも、「ありのままの自分」でいることこそが理想とされている。
どこに行っても誰と会ってもオレはオレ、ワタシはワタシ。それこそが、誠実な人間の生き方だ。———しかし、もう一度、実感と照らし合わせてほしい。そんなことは、果たして可能なのだろうか? こちらはそれでいいかもしれない。しかし、相手をさせられる方は、たまったものではない。面倒臭いヤツと、辟易されるのがオチだ。
人間には、一人一人、多様な個性がある。にも拘らず、相手がどんな人であろうと受け容れられる人格というのは、どういうものだろう? 聖人君子のような理想的な人格なのか、それとも、どんな消費者にもマッチする大量生産品のように、没個性的で、当たり障りのない人格なのか? どちらでもなく、「オレはオレで通ってる」という人がいれば、周りが非常に寛大で、忍耐強く彼を受け容れているだけなのではないだろうか?

 

私はだから、人間は結局、他人の顔色を窺いながら、「本当の自分」と「表面的な自分」とを使い分けて生きていくしかない、と言いたいのではない。他者と共に生きるということは、無理強いされた「ニセモノの自分」を生きる、ということではない。それはあまりに寂しい考え方だ。

 

すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。
そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

 

「個人(individual)」という言葉の語源は、「分けられない」という意味だと冒頭で書いた。本書では、以上のような問題を考えるために、「分人 (dividual)」という新しい単位を導入する。否定の接頭辞 in を取ってしまい、人間を「分けられる」存在と見なすのである。
分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、......それらは、必ずしも同じではない。
分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。必ずしも直接会う人だけでなく、ネットでのみ交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る。
一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。 個人を整数の1とするなら、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。
私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。
分人の構成比率が変われば、当然、個性も変わる。個性とは、決して唯一不変のものではない。そして、他者の存在なしには、決して生じないものである。

 

本書は、抽象的な人間一般についての理論書ではない。そうした体裁を整えようとすると、どうしてもモデルが先行して、私たちの実感に潜んでいる微妙なニュアンスを押し潰してしまう。そもそも、私は学者ではない。小説家だ。従って、語られる内容は、最初から最後まで、具体的な話ばかりである。無駄な複雑さを極力排して、可能な限り、率直に、シンプルに、わかりやすく議論を進めたい。

 

私たちは現在、どういう世界をどんなふうに生きていて、その現実をどう整理すれば、より生きやすくなるのか?
分人という用語は、その分析のための道具に過ぎない。
漠然と気づいていることを、改めて考えるためには、どうしても、言葉が必要である。「無意識の存在」を、フロイト以前の人間がどんなに感じ取っていたとしても、話題とするためには、やはり適当な用語が与えられなければならなかった。
その意味では、本書の内容は、多くの人が既に知っていることである。ただ、明瞭に語られてこなかったというに過ぎない。議論のためには、どうしても足場が必要となる。本書の意義は、それをまずは整備することである。

 

メディアが発達し、人間関係がますます複雑化する中で、今日ほど、「コミュニケーション能力」が声高に叫ばれている時代もない。そのために、多くの人が、アイデンティティについて思い悩んでいる。私とは何か? 自分はこれからどう生きていくべきなのか?

旧態依然とした発想では、問題は解決しない。現代人の実情に適う思想を、一から作ってゆくべき時である。

 

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』まえがき 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここまで)

 

この続きはまた明日に!

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は

 こちらの記事(旧ブログ)からどうぞ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆寺子屋塾に関連するイベントのご案内☆

 7/15(月・祝) 第25回易経初級講座

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎らくだメソッド無料体験学習(1週間)

 詳細についてはこちらの記事をどうぞ!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。