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平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(その5)

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平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(その5)

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(その5)

2024/07/15

昨日投稿した記事の続きです。

 

平野啓一郎さんの著書

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』

とっかかりに、

「私とは何か?」という問いについて

考察しはじめていて、

この記事が5回目となります。

 

昨日の記事では、為末大さんが

「私とは何か?」という問いを考える上で、

非常に参考になるお話をされている動画を

6/5にアップされていたので、

その動画をシェアして

文字起こしした講義録を紹介しました。

質問コーナー:為末さんは「向き合う」「学ぶ」ことに関して、どのようにお考えでしょうか?

 

らくだメソッドの

セルフラーニングに関連するところとしては、

動画の一番最後で、

 

体感的にわかるってことが何か

アドバイスできるとしたら、

ルーティンは人間の幸福には結構強力なので

毎朝これをやるとか、毎日これをやるとか

儀式的なもので、

自分自身の1日をくるくる回していく行為は

フローを作っていく上で重要だと思う

 

って話されてましたね。

 

また、一昨日投稿した(その3)で紹介した

為末さんの7/11X投稿記事では、

 

自分がどう見えているかを知ることは、

相手の見抜く力に比例して深まっていきます。

奥まで見る人の前では隠しても隠しきれません。

そうなると自分の本性を認識しておく

必要があるのだと思います。

 

という箇所が特に大切だとおもいました。

 

というのは人間、自分ひとりだけで、

自分のことを考えようとしても限界があって、

独りよがりなものにとどまりがちだからです。

 

そして、そういう自己中心的な考え方に

囚われてしまう理由の1つには、

自分という人間が、

矛盾無く統一された「個人」であるという

おもいこみのようなものがあるんじゃないかと。

 

でも、平野啓一郎さんが提唱されているような、

一人の人間が

さまざまな分人の集合体で

成り立っているという見方を受け入れると、

考え方を生み出す背景として、

たくさんの人との

対話的なやり取りの積み重ねが

前提として存在しているように感じるからです。

 

 

さて、「私とは何か?」という大枠からは

離れていないんですが、

話題が平野啓一郎さんの分人主義から

ちょっと外れてしまったので

今日は戻しましょう。

 

「分人主義」でYouTube動画を検索すると、

かなりたくさんヒットします。

 

それで今日はその多くの動画の中から、

「哲学チャンネル」の動画を

紹介することにしました。

 

12分ほどの動画で前後編2本に分かれていて、

今日は、前提となっている

個人と分人について解説している前編です。

 

個人と分人【分人主義 前編】

 

(引用ここから)

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こんにちは!哲学チャンネルです。今回は小説家の平野啓一郎さんが提唱する「分人主義」について解説します。「個人ではなく分人」という認識は、人生をよりよく生きるヒントになりうる考え方です。「自分」や「他者と」いうものを解釈する上で、とても面白い内容だと思いますので、参考にしていただけると幸いです。今回は前編として、「個人」と「分人」という概念について解説させていただきます。ぜひ最後までご視聴ください。それでは本編に参ります。

 

「分人主義」を提唱しているのは、小説家の平野啓一郎さんです。平野さんは、京都大学在学中に23歳という若さで『日蝕』にて芥川賞を受賞しました。その後『葬送』『決壊』などの代表作を生み出しますが、特に『決壊』後の作品に関しては、今回解説をする「分人主義」を下敷きにした社会風刺がテーマの一つになっています。2012年には自身が提唱する「分人主義」をまとめた『私とは何か 「個人」から「分人」へ』を出版。現在は芥川賞選考委員も務めていらっしゃいます。

 

早速「分人主義」について考えてみましょう。私たちは当たり前のように、「個人」という概念を受け入れています。wikipediaで「個人」を調べると、こうあります。「社会集団と対比されている概念であり、社会集団を構成する個々の人のこと。所属する団体やその地位などとは無関係の立場に立った人間としての一人」この説明に異論がある方は、ほとんどいないと思います。「個人」とは私そのもののことであり、ポイントは社会や集団の対義語である。つまり、「個人」とは、社会や集団とは無関係に存在する私そのもののことで、個人という言葉は、英語の individual の翻訳です。 individual は「分ける」という意味の動詞に由来する dividual に否定の接頭詞(in)がついた単語です。よって individual を直訳すると「不可分」になり、個人という言葉には、「これ以上に分けられない」という意味が含まれています。

 

古代ギリシャのアリストテレスに始まる西洋論理学は、物を分けて分類することを研究し、そのベクトルは、やがて西洋科学に吸収されていきます。「個人」も明らかに西洋論理学的な影響を受けた概念だと言えるでしょう。ミシェル・フーコーは、著書『物と言葉』において、有限の存在ととしての「人間」は近代によって現れ、その「人間」は今終焉しようとしている」という主張をしました。同様に、 individual という概念も、人類が誕生してからずっとそこにあったものではなく、むしろつい最近になって初めて規定されたような、ある意味恣意的な概念だと考えることができます。少なくとも individual が「個人」と訳されたのは、明治時代になってからだとされているため、「個人」という日本語が比較的新しい概念なのは間違いないでしょう。とはいえ、「個人」という概念は相当に厳密なものだと思います。社会や集団をできる限り分割していくと、最後に残るのは「個人」であると言っても違和感はないですし、「個人」である私をこれ以上に分割するのは、むしろおかしなことだとすら思います。

 

しかし、『私とは何か』では「個人」という概念を大雑把な単位であると批判し、現在の社会において「個人」という大雑把な単位は、もはや通用しなくなっているのではないかという疑問が提示されます。分人主義では、「個人」という概念の代わりに、「分人」という概念が提唱されます。私たちが「個人」だと思っているものは、場面場面において現れる「分人」の集合体である。ユング心理学用語に「ペルソナ」というものがあります。一般的には、「自己の外的側面」と理解されるものですね。私たちはあらゆる場面において、その場に即したペルソナをかぶり、家族の前でのペルソナ、友人の前での職場でのペルソナ、このように環境によって自分のキャラが変化すること自体を否定する人はいないと思います。

 

個人主義の観点からは、ペルソナはどう理解されるでしょうか。おそらく「個人」という絶対的な何かが根底に存在していて、その外側に環境に依存したペルソナ的なキャラクターが構成される、そのように考えるのだと思われます。一方、分人主義の観点では、ペルソナに対して違う解釈がなされます。根底に「個人」という絶対的な何かが存在するという感覚は誤りで、それぞれのペルソナがそれぞれに「分人」として存在し、その「分人」の合計が私を構成していると考えるのです。つまり、ペルソナを「仮面」ではなく、私そのものとして認識するのですね。個人主義においては、個人という絶対的な何か、つまり「本当の自分」のようなものが想定されます。職場の自分は本当の自分ではない、家族の前の自分は本当の自分ではない、友人の前の自分が本当の自分である———どこかに「本当の自分」が存在していて、そこに様々なペルソナが付随しているというわけです。

 

しかし、「本当の自分」って何でしょうか? 場面ごとに現れる様々なキャラクターを統合するようなメタ的な位置にある「本当の自分」は、存在するのでしょうか? ペルソナ的なものを全くかぶっていない状態を、「本当の自分」と定義することはできなくはなさそうですが、他者との関わりの中でペルソナを全く被らないなんてことは、想定しづらいですし、そうなると「本当の自分」には実体がないことになり、「本当の自分」に対する感覚は勘違いだと思えてきます。分人主義では場面ごとの微妙に違うキャラクターを、「分人」として定義します。そしてそれぞれの「分人」は、それぞれが実体を持ち、いわばその全てが「本当の自分」なのです。仮に個人的な意味での「本当の自分」という感覚を持っているならば、それは自身の中にある分人の一つを「本当の自分」と解釈しているか、自身を構成する分人の比率を「本当の自分」と解釈しているか、そのどちらかであると分人主義は考えるわけです。

 

「本当の自分」または、私たちが「個人」だと思っているものが、一人の中に複数存在すると言い換えてもいいですね。多重人格それぞれに、別個の「個人」的な主体を与えるとまで言うと言い過ぎですが、感覚としては割と近いかもしれません。『私とは何か』では、「個人」という概念は、そこにいる人間を「それ以上に分割できない単位」として規定することで、社会的な管理を円滑にする働きを持つと指摘されます。士農工商が崩壊した明治初期においては、「個人」を導入して人民を独立した主体として定義することが急務だったのです。そして、この「個人」の導入がきっかけとなり、日本人における自我の苦悩が始まったと言います。

 

確かに「個人」という概念は、「たった一人の本当の自分」のような主体があることを想起させます。そして、高度経済成長期をはじめとする、全体が同じ方向を向くべき時代や大きなコミュニティによって社会が形成されているような時代においては、このような解釈はむしろ人々の幸福度を押し上げる機能を持つのかもしれません。しかし、大きな物語が崩壊し、人々が別々の方向を向き、小さなコミュニティで社会が形成されるようになった現代においては、「個人」という概念の柔軟性の無さが、むしろ人々の悩みの一員になってしまっている。場面ごとに現れる多種多様な「自分」のそのすべてが、「個人」という概念に紐付けられない別々の「本当の自分」である。分人主義のこの主張は、現代の生きづらさを軽減する一つの思考スキームになり得るのかもしれません。

 

とはいえ、個人主義側からはこのような反論があるでしょう。「分人主義は、単にペルソナを分人と言い換えているだけだから、それによって何かが根本的に変わることはないのではないか。個人主義の観点からも、それぞれのペルソナは、『かりそめ』ではなく当然のように『本当の自分』なのであり、分人主義が提示している主張が、特段新しいものだとは思えない。」しかし、分人という概念を導入することは、ペルソナの言い換え以上の意味を持ちます。

 

個人主義の立場に立ってみましょう。個人は様々な場面でそれぞれのペルソナを使い分けます。家族の前においてのペルソナ、友達の前においてのペルソナ、職場でのペルソナ、恋人の前でのペルソナ———仮に「家族の前においてのペルソナ」が本当の自分だとするならば、その他のペルソナはかりそめのものであり、そこでの人間関係は、互いに互いをバカし合うような、ネガティブなものだと思えてしまいます。

 

しかし、分人主義の立場に立てば、家族の前においてのペルソナも、友達の前においての、職場での、恋人の前でのペルソナも、全て「それぞれの分人」の一つであり、その場においての「自分」が正直に現れているという、ポジティブな印象で解釈することが可能になるのです。このように、現在支配的な「個人」という概念を「分人」に置き換えてみると、特定の事象について、また違った解釈ができるようになります。分人主義の有用性は、まさにそこにあり、そういう意味で分人主義は、世界を解釈するためのツールなのです。実際『私とは何か』では、「分人主義の提唱する理論が科学的に正しいかはあまり重要ではなく、分人という用語は、より良く世界を理解するための道具にすぎない」という記述もあります。

 

では、分人主義を採用することで、どのような解釈が生まれ、それが、私たちにどんなメリットをもたらすのでしょうか。それを考える前に、私たちがどのように「分人化」していくのか、そのステップについて触れましょう。分人化のプロセスは、大きく3つに分類できます。

 

第一ステップは、「汎用性の高い分人の登場」です。『私とは何か』では、これを「社会的な分人」と呼んでいますが、その名の通り、不特定多数の人とコミュニケーションが可能な、ある意味、未分化状態の分人だと表現することができます。私は今、それなりの田舎に住んでいます。それなりの田舎って、外で見知らぬ人とすれ違った際に、普通に挨拶をするんですね。都会に住んでいた時には、ありえなかった風習です。知らない人に挨拶を返す、場合によっては、「今日は暑いですね」みたいな、ほとんど意味がない会話を交わす。こういう場合、私たちは相手が誰であれ、大体同じような人間になっています。まさに「社会的な分人」と言えるわけですね。とはいえ、「社会的な分人」は、全世界共通のキャラクターではありません。その人が生きている社会の慣習や常識によって、その性質は異なると考えるのが自然でしょう。そういう意味で、自分の中の「社会的な分人」が、どうもしっくりこないということもあるでしょう。そういう場合には、住む場所を変えることが、人生の転機になり得るのかもしれません。

 

分人化の第二ステップは、「特定グループに向けた分人の登場」です。学校や会社などの特定の空間用に分人化が進むのは当然として、他にもSNSをはじめとするネット空間や、同じ文化を共有する仮想的な集団の中での分人化などもこれに当たります。社会的な分人がその人が属する環境に影響されて生まれるように、特定グループに向けた分人も、そこにある環境に影響されて登場します。つまり、「特定グループに向けた分人」とは、「社会的な分人」がより狭いカテゴリーに限定されたものであると解釈できます。

 

分人化の第三ステップは、「特定の相手に向けた分人の登場」です。特定の相手との関係性が深まるにつれて、対象の思考の性質を認識するようになり、より具体的な分人が現れる。もちろん、すべての他者に対して、「特定の相手に向けた分人」が現れるわけではありません。中には「社会的な分人」として対応するだけで、事足りるケースもあるでしょうし、「特定グループに向けた分人」で十分な対応ができることもあるでしょう。その対象との関係性の中で、「分人化の必要」がある場合に、「特定の相手に向けた分人」が要請され発言します。

 

以上、分人化のステップを説明しましたが、実際は説明の必要がないほど当たり前の感覚なのかもしれません。私たちは日常的に「自分でキャラを使い分けている」という感覚を持っていて、それが「汎用的」「特定の場所」「特定の人」に対応していることも、なんとなく理解しているはずです。とはいえ、ここで重要なのは、「分人化は自分が意図して、自分を要因として起こるものではなく、ある環境に応じて、その環境に影響を受けて起こるものである」という解釈です。

 

分人は必ず外部の影響を受けています。これは次の動画の解説でも触れることですが、「特定の誰か向けの分人」の構成要素の半分は、その「特定の誰か」なのです。仮にその「特定の誰か」が存在しなければ、自分一人でどう頑張っても、その「特定の誰か向けの分人」が現れることはありません。そのように考えると、「分人」とは、どこまで行っても「外部環境に依存した概念」であり、その「外部環境に依存しながら分人が存続する」という理解こそ、分人主義を有効に利用する重要なポイントなのです。次回は分人主義のメリットについて解説します。以上です。

 

今回も最後までご視聴頂きましてありがとうございます。チャンネル登録、高評価が更新の原動力です。ぜひご協力よろしくお願いします。それではまた次回、お会いしましょう。

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(引用ここまで)

 

明日は、今日紹介した前編動画の続編で、

分人主義のメリットについて

解説している後編動画を紹介する予定です。
 

この続きはまた明日に!
 

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