平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(その8)
2024/07/18
昨日投稿した記事の続きです。
とっかかりに、「私とは何か?」という問いを
考察し続けているんですが、
今日の記事が8回目となっています。
前回は、「分人」という用語は、
より良く世界を理解するための
「道具」であるという平野さん自身の記述を受けて、
「分人主義」という考え方は、
〜主義、イデオロギー、思想というよりは、
人格、自己をとらえる〝単位〟であり
〝捉え方〟と見做す方が
適切なのではないかと書きました。
また、昨日の記事では、
分人という捉え方のルーツについても
哲学者ドゥルーズのアイデアや
文化人類学の研究を紹介し、
平野さんオリジナルのものではないことにも
言及しています。
「分人」をひとつの道具と捉えるならば、
その道具をいったい何に活かせるかというと、
ひとつは「対人関係」ということになるでしょう。
(その1)の記事冒頭に、
寺子屋塾で採用している
セルフラーニングという学習法は、
学習プロセスにおいて、
自分という人間を観察し、知ろうとする姿勢を
大事にしているという特徴があります。
と書いたんですが、なぜそうなのかと言えば、
重要であるにも関わらず、
対人関係の中で一番蔑ろにされがちなのが、
自分自身との関係だからです。
学校や会社といった
集団内における対人関係や
恋愛や家族との対人関係、
つまり、自分の外側に見えている世界というのは、
煎じ詰めていうなら、
映画館のスクリーンに映し出された
映像のように、自分の内的世界つまり、
自分自身との関係が投影されたものでもあるので。
もちろん、どちらから取り組むかという
順序の問題ではあるんですが、
なかなか自分のおもいどおりにはならない
外側にある他者との人間関係から
何とかしようと調整するよりは、
自分自身の内側から整える方が
現実的に考えてもず〜っとラクでしょうから。
つまり、この寺子屋塾ブログでは
いつも書いていることですが、
自己受容ができているかどうか
自分自身との折り合いがついているかどうかが
本当に大事なんですね〜
それで、さきほど、
自分という人間を観察し、知ろうとする姿勢を
大事にしているという特徴があります。
と書いたんですが、
セルフラーニングによってわかってくるのは、
自分という人間がいかに
さまざまなおもいこみや刷り込みに支配され
まるでロボットのように
自動操縦されてしまっていることでもあるので、
それを手放していくことの大切さと
言い替えた方がいいかもしれません。
「分人」という捉え方を
取りいれることのメリットとは、
「自分という人間は〜だ」という決めつけや
様々なおもいこみを打破し、
まわりの人と柔軟性に富んだ人間関係を構築する
可能性が拡がることにあると
言ってよいでしょう。
第4章では、恋愛に触れているんですが、
その冒頭部分を引用して紹介します。
(引用ここから)
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「恋愛」、つまりは「恋と愛」
分人という単位を通じて、自分について考え、他者について考えてきた。では、両者が愛し合う「恋愛」はどうだろうか?
恋愛の定義には、人それぞれの思い入れがあるだろうが、こちらが相手を愛し、相手も こちらを愛することで、思いが双方向的になる、というのが基本的なイメージだろう。一方的だと、いわゆる「片思い」だ。
もちろん、この理解が間違っているわけではない。しかし、ここで指摘したいのは、前章の最後でも確認した、もう一つの矢印の動きだ。まず、話を整理するために、恋愛を 「恋」と「愛」との二つに分けるところから始めてみよう。
「恋」とは、一時的に燃え上がって、何としても相手と結ばれたいと願う、激しく強い感情だ。人を行動に駆り立て、日常から逸脱させてしまうが、継続性はない。ヨーロッパの概念では、「エロス」に対応するものだ。
他方、「愛」は、関係の継続性が重視される概念だ。激しい高揚感があるわけじゃないが、その分、日常的に続いてゆく強固な結びつきがある。「エロス」に対して、「アガペー」という概念に対応するもの、とここでは整理しておこう。一口に恋愛といっても、この「恋」の局面と「愛」の局面とは異なっている。
多くの場合、恋愛は、恋から始まって愛へと深まっていく。動物の場合は、正しく「求愛行動」だ。しかし、価値としてどちらが重要だと言うことは難しい。直向きな恋をしている人は、相手と永遠に結ばれる愛の日々を願っているだろうが、逆に、安定的に関係が 継続される愛の状態にあると、折々、激しく高揚する恋を体験したくなる。人間の恋愛感情は、シーソーのように、どっちかが高まればどっちかが低下する、ということを繰り返し続けるのだろう。
いわゆる「恋愛小説」で描かれてきたのは、圧倒的に恋の方だった。互いに恋心を抱き合っている男女が、様々な障害のために、なかなか結ばれないというストーリーは、『ロミオとジュリエット』から、今日のテレビドラマに至るまで、散々繰り返されてきている。なぜなら、登場人物は情熱的に行動しやすいし、二人が結ばれるという「愛」の状態がゴールとして設定されているため、展開を辿りやすいからだ。
他方で、愛を描こうとすると、話は日常的に継続している関係が中心になるのだから、ストーリーの起伏をつけることは難しく、情熱的な場面も描きにくい。わかりやすいのは、それが非常に特殊な事情で続いている場合、あるいは、愛の終わり、崩壊というゴールが見据えられている場合だ。例えば、若き日のダスティン・ホフマンが主演した『卒業』という映画は、恋が終わり、愛が始まると、二人はどうなるのか?という、どことなく不安げなシーンで幕が下りる。
そもそも、「個人」と同様、「恋愛」という日本語も、明治になってヨーロッパから輸入した love という新しい概念の翻訳で、最初はなかなか理解されなかった。個人と個人とが愛し合うという形での恋愛が、人生の一大事だという考え方が、当時の日本人にいかにピンと来なかったかは、様々な文章から見て取れる。
私は『一月物語』の中で、「社会」対「個人」という思想の下に、自由民権運動に参加したものの、結局挫折し、「恋愛(ラッヴ)」をする自分というアイデンティティに救いを求め、情熱を賭けようとする主人公を描いた。これは、「恋愛」を「思想」にまで高めて同時代人に鮮烈な驚きを与えた、明治期の浪漫主義の詩人、北村透谷にインスピレーションを得ている。あまりにも大きなテーマなので、本書では扱えないが、ご興味のある方は、谷崎潤一郎の「恋愛及び色情」という短い、非常に面白いエッセイを読まれることをお薦めする。
※『私とは何か 「個人」から「分人」へ』第4章 愛すること・死ぬこと
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(引用ここまで)
この続きはまた明日に!
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