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「高次」とは認識視座の増加である(雲黒斎さんのYouTube動画より)

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「高次」とは認識視座の増加である(雲黒斎さんのYouTube動画より)

「高次」とは認識視座の増加である(雲黒斎さんのYouTube動画より)

2024/09/05

昨日投稿した記事の続きです。

 

といっても、本日投稿記事のメインコンテンツが

『あの世に聞いたこの世の仕組み』の本を

紹介することではないことから、

タイトルは変えて投稿したんですが、

昨日までに投稿した記事を未読の方は

まずは次からどうぞ。

雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』

雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その2)

雲黒斎『あの世に聞いた、この世の仕組み』(その3)

 

そもそも、一昨日投稿した記事に書いた通り、

この記事を書き始めたきっかけは

教室にやってきた塾生の一人から、

 

「内的観点と外的観点のブログ記事を読みました。

 (その14)で統一場心理学YouTube動画の

 文字起こしをアップされてましたよね。

 吉家さんが『統一場心理学の特徴は、従来の

 他の心理学の多くが内的観点中心のアプローチ

 だったところに外的観点を持ち込んだ点です』

 話されていたのが、よくわからなかったんですが、

 どういう風に理解したらよいでしょうか?」

 

と問われたことからでした。

 

また、この質問内容からわかるとおもうんですが、

昨日まで投稿してきた一連の記事は

先月15回にわたって投稿した

「内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと」

の続編でもあるわけなんですが。

 

 

さて、昨日の記事では、Aさんが言われた

「ありのままのあなたを受け入れましょう。」

Bさんが言われた

「人間は不完全だから精神修行が大切です。」

立体的に捉えて統合すればどうなるか、

ご自身で考えてみてくださいと書いたんですが、

やってみましたか?

 

まず、Aさんは存在の本質という意味を持たせて

「あなたは」と言い、

Bさんは、幻想の自分という意味を持たせて

「人間は」と言っていますから、

そもそもこの二人の話は〝主語〟が違っていて、

しかも、各々異なる意味を含ませているんですね〜

 

また「完全」「不完全」という言葉にしても、

相対的な意味で使うなら、

基準となるモノサシが必要です。

 

なぜなら、どこから見ているのか、

何と比べているのか、

そもそも基準自体が一律ではないことを

前提としているのであれば、

1つ上の次元から捉えていることになるので、

「完全であり、なおかつ不完全である」という

言い回しにしても、何ら矛盾はないわけで。

 

つまり、言葉というのはあくまで方便で、

同じ言葉でも、使う人によって使い方や

意味が違うことは日常茶飯事であって

結果として表現された言葉を

受け取った人が表面的に解釈してしまうと、

メッセージを発した人の本意を

正しく受け取り損ねてしまいがちです。

 

 

さて、雲黒斎さんの本をお持ちの方は、

すぐ後のところにAさんとBさんの話を

統合された文章が書いてあるので(単行本197頁)、

それを見ていただければ確認できるんですが

次に記しておきます。

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Aさんの話「あなたはそのままで完全・完璧な存在です。あなたはあなたのままでいいのです。ですから、他の何者かになろうなんて、そんな努力は必要ないのです。さぁ、ありのままのあなたを受け入れましょう。それこそが、幸福への道です」


Bさんの話「人間は、不完全な生き物です。釈迦はそれを〝苦〟と表現し、イエスは“原罪〟と表現しました。人間は不完全な存在ゆえ、ほうっておくと不幸になっていくのです。不完全であるがゆえ、世界はこんなに多くの問題を抱え、混乱してしまっているのです。だからこそ、一人ひとりの精神修行が大切なのです」

 

AさんとBさんの話を統合した文章「あなたという存在の本質は完全・完璧なものです。あなたはあなたのままでいいのです。ですから、他の何者かになろうなんて、エゴを肥大化させるような努力は必要ないのです。さあ、ありのままの状態(真我)を発見しましょう。あなたがこれまで苦しんできたのは、また、何かしらの不満を抱えていたのは、その人生に何かが欠けていたからではありません。幻想の自分(固定化された思考→自我)に飲み込まれ、本来の完全性を発揮できていなかったからなのです。あなたが幻想の自分から離れ、ありのままの状態であるために精神修行が必要となるのです。〝必要となる〟といっても、それは物質や新たな知識を得ることではありません。 完全性を妨げているモノを手放していくことなんです」

 

雲黒斎『あの世に聞いたこの世の仕組み』第10章「真我と自我」より
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここまで)

 

 

この、AさんとBさん二人の話を統合した文章を

端的に要約するなら、

「人間という存在は、完璧だけど不完全。

 だから、本来の完全性が発揮できるように、

 それを妨げているモノに気づきましょう」

なりますか。

 

これって、いわゆる精神世界や宗教で

語られていることの前提と言ってよいものですよね。

 

雲黒斎さんの『あの世に聞いたこの世の仕組み』

第10章「自我と真我」の後半は、

この前提自体が理解できていない

「にわか精神世界」「エセ宗教」の批判や、

さらに注意深く見抜かなければいけない

自我の本質の話に展開していき、

それはそれでとても興味深い内容ではあるんですが、

テーマからは外れて言ってしまうので、

また別の機会に譲ろうとおもいます。

 

それで、一昨日記事を書き始めたきっかけとなった

内的観点中心のアプローチだったところに

外的観点を持ち込む

というのは、どういうことなのかという

そもそもの問いに再度立ち戻り

もうすこし掘り下げて考えてみたいというのが

本日の記事のメインコンテンツです。

 

たとえば、

これまで二次元的に理解しようとしてきた

人間の心の存在を、

三次元として捉えることでもあるので、

統合し1つ上の次元を意識できるようにする

ということとは、結局のところ

どういうことなのかってことなんですが。

 

雲黒斎さんが3年前にライブ配信されていた

YouTube動画にこのテーマで語られたものがあり、

今日はそれをシェアすることにしました。

 

雲さん自身も動画の中で、

「フラットランドシリーズ」とか

「黄色い本の第10章、アナゴさんの話の続き」とか

言われていて、すべて含めると動画は

10本近くあるんじゃないかとおもいますが、

そのうちの3本です。

 

眼には見えない世界の話をしているので、

雲さんも動画の中で

「ついて来れてますか?」

「伝わってます?」と

何度も何度も確認しながら話されているんですが、

注意深く聴いてみてください。

 

2021.4.4

雑談アワー「高次元の世界(アセンションの秘密)」

 

2021.4.6

雑談アワー「既知を用いて、未知に辿り着ける?」

 

2021.4.7

雑談アワー「視野が広がると、時間は消失する」

 

続きは明日投稿予定の記事で!

 

※冒頭の画像はM.C.エッシャーの「上昇と下降」

 豊田市美術館にて9/23までエッシャー展開催中

 

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●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は

 こちらの記事(旧ブログ)からどうぞ

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