「統合する」ということ(その21)雲黒斎「〝自我〟は手放せるか?」①
2024/09/26
昨日9/25に投稿した記事の続きで、
「〝統合する〟ということ」をテーマにした記事も
今日で21回目になりました。
記事の素材を様々なカテゴリから取り上げていて
各々の記事は単独でも読めますが、
これまで投稿してきた20回分で書いた内容を
前提として話を進めることがあります。
各々の記事内容が
結果として統合されることから
浮かび上がってくるものこそ、
この連投記事で書こうとしている
メインテーマでもあり、
これまでの投稿で未読記事のある方は、
時間的に可能な範囲でご覧になり
ぜひ内容の統合にチャレンジしてみて下さい。
(その16)の記事で紹介した
M.C.エッシャーが、
初期の頃から晩年にわたって自画像を
継続的に制作していたことを紹介しながら、
寺子屋塾で実践している
セルフラーニングの意義や、
アートとサイエンスの統合について考察しました。
それで、昨日の記事で、
人に相談したり、人から話を聞いたりすることは
もちろん大切なことだし、
その人がそう言っているからではなく、
自分で決めてまずやってみる姿勢が大事なんだけど、
「実践する、行動する」という段には、
見抜かなければいけない罠が
もうひとつ潜んでいるって話を書いたんですが
覚えていますか?
「確固とした〝自分〟が存在している」という
感覚自体が、実は勘違いであって、
「自分」と「自分以外の他者」という風に
分けて考えてしまうことによって、
却ってその自我の存在を
強めてしまうことになりかねないわけです。
それこそが、いわゆる自我意識の為せる技で、
そのトラップ(罠)を見破るためにも、
自己観察を徹底して継続し、
ケシーさんの言い回しをお借りするなら、
自分の神様を育てようとする姿勢が大事なんですが,
まあ、わけワカランんですよね〜 笑
「自分がいる」「自分がいない」の話は、
8月に15回にわたって投稿した
ちゃんと腑に落ちていて実践できていれば、
何ら矛盾なく受け取れるはずなんですが、
昨日の記事を読み返してみて、
そのあたりの話が
十分に展開できていなかったように感じたので、
雲黒斎さんがそのテーマで
詳しく言及している動画があり、
文字起こしして、紹介することにしました。
ただ、例によってYouTubeライブ配信の動画で、
約1時間の分量があり、その全部を
文字にすると1万字を超えてしまうので、
今日と明日の2回に分けて紹介しますね〜。
(引用ここから・太字は井上)
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[冒頭お知らせの部分は省略し6分38秒あたりから]・・・で、今日なんですけども、まぁ、ここのところね、「何かテーマないですか?」って投げかけてたんですけども、どうしてもやっぱりテンポが悪いというか、あっち行ったりこっち行ったりが、また出てきてしまったので。
で、今日もお話し会で、この「いのちの大問題」っていう、そこ以外のご質問も頂いてたんですけども、そこにお答えする時間がなかったので、場所を変えてと言いますか、ご質問された方が、これご覧になっているかどうかわかりませんけども、お話をしようかなと思っております。そして、というか、今日お話ししようとしている内容が「自我を手放す」っていう、このテーマでお送りしたいと思っております。お付き合いください。
「あの〜黒斎さん!これまで色々と学んできたんですけど、この自分が厄介で厄介で、どうやったらこの自我ってものを手放すことができるんでしょうか?」って、この種のご質問をよく頂くんですよ。で、いつものね、昔の雲さんとぼくのやりとりだったら、この質問を雲さんに投げかけた途端に「喝(カーツ!)」ってやられるわけです。「ああ〜っ!? 自我を手放す? 誰が自我を握っとるんじゃい!」笑 あの、だから自我が何かも分からないで、何を手放そうとしてるんだって? 何をお前は握ってるんだ? 違うよ!そもそも自我が何かがわかってない!ってことで、この自我っていうのが、何なのかっていうのも何度かお話ししてますけど、みんなやっぱり自分がいるって思ってるもんだから、わたしが自我を握りしめてると思ってるわけですよ。で、死んだらこれを手放せますか? ってなるわけですよ。笑 違う!
ねぇ。だって、わたしはいないんだからさ。いないものが、自我を握りしめることはないじゃん。だから、その発想のまんま、「どうやったら手放せるんだ? どうやったら手放せるんだ?」ってやっていても、構造上、わたしが自我を握りしめてる訳じゃないから、できないんですよ。そもそも自我っていうのは、僕たちの持ち物ではなくって、はい。この、わたしがいるっていう感覚をもたらす壮大なシステム、プログラムと、そのプログラム、システムによって生まれたこの分離意識、わたしがいるというその感覚、それを自我って言うんですよ。これはある種の誤解、錯覚として生まれているもので、実態はありません。なので、わたしが自我を握ってるわけじゃないんですよ。なので、わたしが自我を手放す方法は、どこにもありません。だって、握りしめてないから。そもそも、握りしめることができるわたしがいないからです。
で、これも言葉としては正しくないんだけど、言ってみれば、この反対のことが起きていて、我々は普段、自我に握り締められてる側なんですよ。だから、こっちには、どうしようもないんですよ。なので「黒斎さん、自我ってどうやって手放せばいいんですか?」っていう、この質問自体が成り立たないんです。この自我がどういうものなのかって、今日のお昼の会でも少し話しましたけど、言っててみれば―――この自我をキングコングだとしましょうよ。わたしがそのキングコングに、ぎゅーってされてるわけ。握りしめられてるわけ。握りしめられてる―――いいですか、これわたし。これわたし、これ自我、わたしが自我を握りしめてるんじゃなくって、自我がわたしを握りしめてるんですよ。で、ここにいながらして、わたしどうやって自我を手放したら入りですかって。はい、無理や~うん、ねえ? 手放すっていうのは、握りしめていることをやめることなんだけど、握りしめられちゃってるからさ。
「そのフィギュア、前から気になってました。」って、向こうでボケていつも立ってたのは、これですよ。コブラです。好きでね~。はい。うん。「握りしめられているのは何?」だから、まあ、これもたとえ話よ〜。握りしめられる実体がないんだけども、感覚としてさ〜。何だろう、だからこの自我、って何かっていうと、この自分がいるっていう感覚、その自分がいるっていう感覚って何?っていうのをもう少し話すと、この身体や感情や思考や記憶や感覚、それらを所有している何者かがいるって思ってるわけ。所有者がいるって。その持ち主のことを自我って言うんだけど、それがいないよっていう話なんです。はい。
昔、コブラの作者、寺沢武一さんのオフィスに取材に行きましてね、二子玉川にあるんですけど、まあおしゃれなところでね、すごいっすね~やっぱりあそこまでの大作家さんになりますと、その権利の問題だとか、あの「世界の寺沢」になってますからね、はい。で、まぁそういうのもあって、あの前から好きでね〜、コブラはねぇ、めちゃめちゃ男前な、超イケメンなんだけど、それを敢えて整形して醜男になるっていうね、そういう設定とか、素敵ですね〜。
だから、「自我も幻想?」って、そう。自我は幻想のことですよ。その幻想を生み出すシステムを自我って言うんです。それから、身体があることも否定しません、記憶があることや経験を感じているものや、その感覚があることは否定しません。でも、その持ち主を示せないでしょ?って話なんです。これは、いのちが―――これも表現上だけどね、いのちが敢えて作り出したプログラムでしかないんです。ここの「わたしとはなんぞや?」っていうことが、そもそも考えられなくなっていることに、気づけますかって話なんです。前にちょっと洗脳の話しましたけども、洗脳って何かっていうと、都合のいい情報を与えてコントロールすることじゃないんですよ。それは、催眠だとか、教育でできることなんで。洗脳って何かっていうと、ある特定の物事に対して、思考が働かないようにするのが洗脳なんです。
そのために―――例えば、北朝鮮っていうのは、こっちから見たらわかるよね? 洗脳国家なんですよね。 「金正恩、マンセー!」っていう、それが当たり前であって、それも感覚がおかしいっていう風にならないように、じゃあ何をするかっていうと、外の他の考え方を入れないっていうことが、洗脳の第一条件なんです。だから、北朝鮮は、例えばインターネットっていうことでも、諸外国からの情報のやり取りができないようにしているわけですよね。通じるかなぁ~。だから、おかしいってそもそも思えないんです。わたしがいないっていうことが、どういうことなのかが、考えられないんです。
で、何かがわかっていないのに、いる、あるっていう、その感覚だけは強いんですよ。うん。ですよね? だから、この「いのち」って言葉でも同じなんですよ。すっかり洗脳されてるんですよ。それが何かって考えられないんです。「真我はどうなりますか?」って、それもないんです。だから、わたしがいるっていう感覚が、あまりにも強すぎるから、宗教的な話をしようとしても、その延長線上で、ニセの、偽りの、架空のわたしの向こうに、本当のわたしがあるっていう風に、誘導されちゃうんです。
これがさ、この本(『あの世に聞いたこの世の仕組み』)のさ、第10章の「自我と真我」に書いてることなんです。このわたしという自我の中に、光り輝く真我があるんだって思い込んでいたけれど、違った!何も入ってない!空っぽだった。伊達な伊達もんさん、「自分の本に付箋って・・」そうそう、これ初版なんですよ。で、この付箋ついているところが何かっつーと、誤字脱字を見つけたところ。笑 それを出版社の方に「二版から直してね!」って言ったとこ。笑 結構間違いがあったんだよ、初版は。笑 だから、自分の本で自分で感動してライン引いたところじゃないからね。笑 そもそもさ、私がいないってこと自体、発想に浮かばないし、聞いたところでそれが何なのか考えが巡らないでしょう?
マイクさん「すべてがいのちなら、皆同じ存在ですね。」はい、そうなんです。「すると、神や仏のような存在はどうなるんでしょう?」だからね、人間と神や仏って分けちゃってるじゃん? また。でも、みんな同じなんですよ。いってみれば、僕たちが分かれているって思ってるけども、すべてのつながりを持った、全体としての状態を、神と名付けているんですよ。で、仏(ホトケ)っていうのは、特定の存在を指してるんじゃなくて、この洗脳が解けている目覚めた意識の状態のことを、仏(ホトケ)と名付けているんですよ。
偽物の精神科さん、「しかしながら、しっかりとした意味、そもそも言葉自体があるので、流されずに生きてください。」という風に頂きましたけど、逆に、言葉が正しいと思えるのはなぜですか?って話になるんです。その言葉は、そこにお話しされている通り、意味っていうのは、言葉としての定義の世界の話なんです。ここにあるこれとは直結しないんです。言葉は、ある種、マトリックスっていう———言葉は、ないものをあるという幻想を生み出す装置の一つになっているんです。
ただ、難しいよね。だから1つの同じ存在って言ってもね、例えば右手と左手は一つの同じ存在っていう言い方もできるし、わたしっていって。右手と左手は違うじゃんっていうふうにも言えるし、そもそも言葉でわかると思うなよ!っていうのが禅の世界なんで。何度もこれも言葉としては上げてますけど、はい。禅の世界の教えは基本、口伝なんですよ。そして、言葉や情報でわかるものではないんです。なので、「不立文字」というのが禅の基本姿勢です。
この間のね、阿部さんの瞑想配信の時にお話しましたけど、これ大切なポイントです。ぼくや阿部さん、他のスピーカーさんもそうです。こうして出している情報はただの情報なので、有難がっちゃダメです!ただの情報です。言ってみれば、料理を作るうえでのレシピを公開しているに過ぎないんです。どんなに美味しい料理のレシピだとしても、レシピ見てても味わえないし、腹は膨れないんです。渡しているのは楽譜です。で、人によってはその感性で楽譜を見て、頭の中で「ああ、こういう曲ね」っていうのが、パッとわかる人がいます。それで満足しちゃうのか、実際に演奏してみるのか。そこは違う話になってきますよね? で、レシピもそうですよね? ある程度料理の詳しい方だったら、その材料や作り方を眺めていくと、きっとこんな味だろうなって想像はつきますよね?
マイクさん、「ありがとうございます。いのちについて最近ようやく分かりました。とすると、神や仏もいないという回答が来ると思っていましたが、神も仏も一緒という答えをいただき、感動しています。」って。まあね、難しいよねぇ。「鼻と胃は一つの同じものか?」って聞かれて、何て答えればいいですか? 違うっていえば違うし、同じっちゃ同じだよね? どこから見るかなんだよ。
なので、情報だけ触れててもダメです。でこれは、なんだろうな、宗教の修行だけじゃなくって、いわゆる引き寄せの法則だとか、何とかメソッドだとかってね、自己啓発本とかもいっぱいあるけれども、それ読んで、「あぁそうだよねー」って納得して、本棚にしまって終わりって人、めちゃめちゃいっぱいいると思う。本当かどうかわからんけども、それも検証してみようって言って、その楽譜を演奏する人、レシピで作ってみて味を確かめる人って驚くほど少ないんですよ。
で、たとえば、引き寄せの法則の第二次ブームの牽引役となった奥平亜美衣さんだとか、あるいはハッピーちゃんだとか。彼女たちに起きたのは何かっていうと、エイブラハムっていうレシピを見て、実際に作って食ってみて、「本当に美味しい!」っていうことがわかった人たちなんですよ。だから、「本当だったよーこれ、美味しい料理だから作ってみて」って、「この曲素敵だったから演奏してみて」って、一所懸命言ってるんだけど、楽譜受け取って、レシピブック受け取って、それで「あーありがたい!」とかやってるわけですよ。いやいやちがうよと。これが、最近阿部さんも、このレシピなり楽譜なりを配る時代はもう終わったって。別にぼくらが新しい楽譜を出さなくても、これまでの歴史上に、それこそ、さまざまな楽譜もレシピも散々あると。それに見向きもしなかっただけで。だから、あとは実践。料理を作る、演奏する。実践だよっ!
で、この実践っていうところに、またトラップ(→罠)があるんですよ。マリーゴールドさんが書いてくれた「行動ってことですか?」って、そうなっちゃうところに、この、いのちの仕掛けたトラップがあるんですよ。むしろ、この何かをやろうっていうこの裏には、わたしがやっているっていう感覚が際立ってしまうから。真実を見抜く実践って、「しないこと」になっていくんです。でも自我は、「すること」によって、様々な情報が得られると思っているので、「しない」ということで何かを経験する、手に入るっていうのが、もう理解できなくなるんです。
自我は、そもそも「動き」というプログラムだから、自我には「しない」という言葉の意味がわからないんです。でね、することしかできない自我は、「しない」がわからないんで、じっとし出すんです。笑。「しない」をやり出すんです。笑。だから、「しない」が根本的にできていないんです。笑 うん。だからね、座禅って言っても、「体を動かさず、じっとしていることですか?」って、ほら、動詞になっちゃうのよ。ゼリーゼリさん、「『しない』ってどうするんですか?」ってなっちゃう。だから〜、「しないんだ」って言ってるのにね。笑
これが、座禅の世界で言われる、只管打坐———「ただ、座れ」っていうことになるんです。「座れ!」じゃないんです。座れっていうと、座るという行為をしてしまうのが自我だから 、何もしていないという様が、座るという形になっていることを只管打坐、ただ座るになる。身体が動かないでいても、相変わらず精神活動は動きっぱなしなわけです。(続く)[31分40秒あたりまで]
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(引用ここまで)
この続きはまた明日に!(^^)/