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「統合する」ということ(その23)森清・公私融合の仕事術

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「統合する」ということ(その23)森清・公私融合の仕事術

「統合する」ということ(その23)森清・公私融合の仕事術

2024/09/28

昨日9/27に投稿した記事の続きで、

「〝統合する〟ということ」をテーマにした記事も

今日で23回目になりました。

 

記事の素材を様々なカテゴリから取り上げていて

各々の記事は単独でも読めますが、

これまで投稿してきた22回分で書いた内容を

前提として話を進めることがあります。

 

各々の記事内容が

結果として統合されることから

浮かび上がってくるものこそ、

この連投記事で書こうとしている

メインテーマでもあり、

これまでの投稿で未読記事のある方は、

時間的に可能な範囲でご覧になり

ぜひ内容の統合にチャレンジしてみて下さい。

(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』

(その2)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』②

(その3)安冨歩『合理的な神秘主義』

(その4)池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』

(その5)森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』

(その6)学問分野の統合・まとめ

(その7)よしもとばなな『花のベッドでひるねして』

(その8)鈴木清順『陽炎座』

(その9)雲黒斎「フラットランドについて」①

(その10)雲黒斎「フラットランドについて」②

(その11)クリシュナムルティ『既知からの自由』①

(その12)クリシュナムルティ『既知からの自由』②

(その13)吉富昭仁『BLUE DROP』

(その14)時間と空間の関係①

(その15)時間と空間の関係②

(その16)M.C.エッシャーの不思議な世界

(その17)清水幾多郎『論文の書き方』

(その18)細谷功『有と無』

(その19)ジェームズ・ミッチェナーの名言

(その20)エッシャーの自画像から見えてくること

(その21)雲黒斎「〝自我〟は手放せるか?」①

(その22)雲黒斎「〝自我〟は手放せるか?」②

 

さて、雲黒斎さんが 2021.6.15に行った

YouTube動画ライブ配信

【ゲリラ配信】雑談アワー「自我を手放す!?」

文字起こしして作成した講義録を

一昨日、昨日と2回に分けて紹介し

昨日投稿した記事の後半では

わたしなりのコメントも記しました。

 

統合というテーマだといくらでも

書く素材はあるんですが、

月末が近づいているので、

明日でいったん締めくくる予定です。

 

「自我はいない」という話は

昨日もコメントしたように仏教の教えでもあって

哲学や宗教、精神世界のカテゴリに含まれますが、

今日は一転して、仕事をどう進めるかという

リアル世界の話題をとりあげました。

 

著者の森清さんは1933年に東京に生まれ、

2018年に亡くなられた

「労働研究家」「町工場評論家」という

肩書きをお持ちだった方。

 

20冊以上の著作を残されていて、

1999年11月に岩波新書として出版された

『仕事術』から

冒頭に置かれている「はじめに」の一部分を

引用してご紹介します。

 

このように帯には大きく「公私融合」と記され、

統合をテーマに書いてきたこの記事で

わたしがなぜ本書を取り上げたかについては、

文章を読んで頂ければ

概ねお分かりいただけるとおもいますが、

詳しくは明日記すつもりでいます。

 

 

(引用ここから)

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この本でわたしは、広く言って情報化社会、現実的には電子が主役の電子社会における仕事術の基本の基を考え、キーワード「公私融合」を使って「公私融合の勤労」「公私融合の仕事術」という新しい考え方、働き方、生き方を示したい。近代は公と私を分けて考えるのが一般的であった。その近代が変質しつつある。それは電子社会の特性による。いま、公と私はそれぞれに在りながら、次第に一体化、融合しつつある。

 

情報化社会と近代の終焉
現在、勤労者の生き方として「自立」が大きな主題だといわれている。それは能力主義や実力主義、リストラなどへの対応策としていわれることが多い。しかしわたしは、社会構造の変化に注目して自立の重要性を考えている。変化の中では、情報化が一つの鍵である。第四章であらためて触れるけれども、はじめに要約して検討しておこう。


情報化は、ネットワーク化によって成立している。ネットワーク化は、自立した「個」の柔軟な結び付きである。これは一般社会はもとより各企業内にも見られる現象だ。かつての会社組織の場合は、一人ひとりの勤労者をピラミッド型に組織して情報で支配していた。この現象はネットワーク化に対応してチェーン化と言える。


工業社会にあっては、一部の自立した中小企業や個人のほかは、個人、企業はチェーン構造で結ばれていた。結ばれているから力を発揮できるということがあったけれども、そのために個人も企業も自立は難しかった。チェーン構造では、組織の階層毎に扱う情報のレベルが違い、情報への対応が定められていた。それで各人は与えられた情報を受け入れ、それにしたがって働いていれば一応役割は果たせた。


ところが、発達した「個」に基づく情報化は、次第に組織における人間に自立性、自主性、自律性を強いるようになった。ネットワーク化において情報は、人事や技術などの秘密性の高い、それだけに支配性の強い情報と、インターネットや電子メールに代表される選択性の高い情報とに分かれるようになった。選択性の高い情報に対しては、関係者が積極的に関わらなければ情報は流通しないし、情報の解釈、対応についての個人の判断能力が課題となる。しかも、情報が種類によっては比較的容易に組織の誰もが入手できるようになったため、組織構造はピラミッド型ではなくなりつつある。そのために、各人が役割を自主的に判断し、行動しなければならなくなった。この場合、組織が個人に求める資質は、組織に反抗的ではなく、しかし絶対的依存ではない自律的な判断で行動できるというようなものである。


さらに重要なことは、情報を選択し対応するだけでなく、情報を自ら高め、創り出す必要が生じたことである。したがって、目前の実践的な仕事情報だけを扱っているわけにはいかなくなった。そこで勤労者は、それぞれの役割に応じて高度な判断や行動をとるために幅が広く奥の深い知識と技術・技能、そして知恵を身につけるように迫られることとなった。


こうして情報化社会では「自立的自律型人間」であることが重要な要素になってきた。「自立的自律型人間」とは、組織に対して対立的ではなく、しかし自立的、時には必要に応じて対抗的立場をとりながら自らを律することができる勤労者のことである。このような組織と個人の関係は、電子社会におけるデジタル化が進むことによって加速されている。デジタル化は社会構造とその性格を変えつつある。それは近代の終わりともとらえられる。


21世紀を「デジタル感性」社会と評する谷口正和は、いま「内と外を分けて発展してきた近代社会というものの終焉」が進みつつあると見ている(『デジタル感性』産能大学出版部、1999年、172頁)。これは公と私を二分してきた偽りが許されなくなったことに通じる。インターネットを利用して新しい仕事を創り出しつつある人々は、多くがボランタリー(自発的、奉仕的)でコラボレーション(共同制作、連携/協働、竹村真一による)している。

 

この事例では、たとえば竹村真一『呼吸するネットワーク』(「叢書インターネット社会」、岩波書店、1998年)、金子郁容『コミュニティ・ソリューション』(同、1999年)が示唆的である。金子の本には、アナログ系の関係性についても報告されている。それらの事例においては、公と私が分けがたく融合しつつあると思える。デジタル化での共同制作では、デジタル技術とともに人と人との出会いや具体的な確かめ作業といったアナログ手段をも併用している。


こうして現在、近代において一つの原理として認められていた自と他、全と個、正と邪といった二分法が威厳を失いつつある。わたしのいう公私融合は、そのような変化をふまえての主張である。

 

公と私
かつて「滅私奉公」という言葉があった。今はほとんど死語になっているこの言葉は、1945年の第二次世界大戦終了まで、お国のために身も心も捧げるという意味で使われていた。戦後は、この「お国」が「会社」と変わり、「滅私奉社」という言葉は使われなくとも「滅私奉公」の意味するところは会社の中で大切なこととされてきた。過労死などは、その考えが波及した悲劇だといえる。さらには、法を犯してまで会社のために働くといった企業人の不祥事が跡を絶たないの滅私奉公の精神がいまだに人々の心の奥底に生き残っているからである。また「公私混同」という言葉があって、これは今も禁止すべきこととして使われている。会社の仕事中に私用電話を掛けてはいけない、会社以外の仕事をしてはいけないといったことから、会社の職権を利用して利益を得てはならない、会社の仕事に私的感情を差し挟んではならぬといったことをいう。従業員の兼業禁止を就業規則に入れている例があるけれども、これも公私混同を悪とする考えから出ている。


それらの、公のために私を利用するなという考えは、おおむね人々が認め、守っている。しかし、公のために私を犠牲にすることはむしろ賞賛される。先にいった法に触れるビジネス行動でも、会社の利益になることなら許されると考える。サービス残業、家に仕事を持ち帰る風呂敷残業、自己啓発と称して自費で会社の仕事に関連した学習をすることなどが薦められ、進んで実行されている。わたしがここにいう「公私融合」は、そうした滅私奉公、公私混同とは対極にある考えである。公と私はそれぞれに独立しつつ、必要に応じて融合し、互いに補完する役割を果たすものと考える。


さて、ここでわたしが使う「公」と「私」を説明しておこう。 「公」は「おおやけ」のことで社会や世間一般のことをいう。「私」は「わたくし」のことで個人のことである。企業は「私企業」とも言われて公に入れないという考えもあるけれども、今はもう「個人企業」(自分個人の資金だけで経営する企業)でも社会的責任を背負うと考えられるように「おおやけ」のものとなっている。ボランティア団体はいうまでもなく「公」である。しかし、そのボランティア団体で働くときに人々はその「公」に献身しつつ「私」の心意気を強める。つまり、「私」の仕事とする。「私」には「個人的な利益をはかること」という語義がある(『広辞苑』)。「私」は私欲、我執などを旧証も含んで「その人ならでは」を現すわけだ。ところで人は社会的動物であるから「私」は、社会、世間の「公」に融和する性格が要求される。そこで人は、「わたくし」ごとの欲望や執着と闘いつつ生きるということになる。それは自我(エゴ)をしのぐ「自己」(セルフ)の確立に関係する。

 


図式的にいえば、人には公と私で生きる側面があり、さらにその人本来を示す自己がその中心にあるということになる。それで公と私の融合は、その人の自己を確立するプロセスが高まっていくことを前提とする。公私融合は、私を重視しながら、必ずしも会社を全否定しようとはしない。あくまでも会社などの組織体と個的存在である私とのバランスをとって双方を生かしたいと考える。ただし、基本は私の方に置くから、会社での仕事責任の取り方などでは、私の立場で考える。公人の責任の取り方は、「人として恥ずかしくないか」といった価値軸で判断する。それがこの本でいう公私融合の手法である。仏教でいう中道は、あい離れた二つの立場から自由になったもう一つの立場に真実を求める考え、実践である。理想はそこにある。 

 

優れた職人は公私融合を生きていた
かつて職人は、私を十分に生きることで公に奉仕するといった生き方を現実にしていた。仕事を私に立脚させて果たすのが職人の仕事術であった。自分に恥じない仕事をする。それが職人の心意気である。わたしが以前付き合っていた町工場の職人たちには、公私融合の人が多かった。たとえば、管理者が「この仕事は受注額が低かったからできるだけ手を抜けるところは抜いてくれ」などというと、「それなら俺はやらない、別の奴にやらせろ」といってはばからない人がいた。気持ちは「職人」である。そういう人は外注先の工場にもいた。下請のおやじさんには、外注費が低くてもそれ以上の仕事をして満足するタイプの人が多かった。そうした人たちの考えは、日本では職人のわがまま、前近代性とすら考えられた。しかし、それは日本の本物の職人が大切にした仕事観、西欧の職業人が発達させた職業倫理などに通じる働き方である。

 

日本では自己に照らして働き、西欧では神に照らして「恥じない」基準を決めていたという違いはある。しかし、目指すところは同じであった。日本では自己に代えて「世間」が西欧の神に匹敵する。ところがその「世間」は神以上にあやふやなものだから、まずは自分が基になる。それで職人などは、まずはその仕事振りを「自分に恥じないで済むか」と考え、ついで世間に対して「これで申し訳が立つか」と考えた。もちろん、近年のように、世間体を思ってというのではない。それよりは、自分で納得出来るかどうかを優先させていた。しかしいま日本で「世間」は権威を失った。そこに一つの問題がある。電子社会に新しい「世間」を作る必要がある。

 

金子郁容の『コミュニティ・ソリューション』(前掲)には、そのことへの当面の回答がある。その本に紹介されている阪神淡路大震災で震災後にインターネット上で非常にボランタリーな活動が行われたこと、インターネット上の大量な情報の利用度が高まることで人々の行動がおのずと秩序だてられるなどが新しい「世間」を作るかと思わせる。日本や西欧の職人たちは、仕事に生きる反面、遊びにも長じていた。それが本物の職人であった。中には遊ぶために働いているというような人も多かった。確かに、遊びにも徹底するからいい仕事ができるということも、事実ある。遊ぶことで仕事から解放され、それによって気持ちに余裕が生まれ、そのゆとりが仕事をする際に集中力を生むというメカニズムが働くからである。これが公私融合勤労の原型だ。

 

資本主義社会での企業経営者や職業人を見ても、優れた人ほど公私融合で生きている。わたしの知っている中小企業の経営者で、公と私を厳密に分けて働いている人は少ない。
ひるがえって職人の場合を考えてみると、秀でているほどまさに先に言った自立的自律型人間であると言える。職人は、自主的に情報を取得し、情報を加工し再構成してさらに具現化する技術を持つことで生きていた。ことに職人は組織に所属して自立するというよりも、独立している例が多かったし、ある職人頭に従っても独立性を保つことが多かった。それで「個」が自ずから確立するということがあった。いま、「職人性」を重視すべきだという提言が増えている。それは、職人が本来は「個」を重んじる情報人であったこと、独立性が強いことに因を発している。


しかし、かつての職人が働いていた組織と現在の職業人が働く組織の構造は大きく異なる。職人は組織に所属しても比較的自由に生活できたから、職人であることを守るために貧しさを省みずに仕事を大切にするということがあった。それに対し、現在の成熟社会における職業人は、すでに享受している生活の豊かさを維持したいために組織から自由になりにくい。一般に勤労者は、職人と違って経済的保証を仕事ではなく組織から得ているためだ。それで本来の自己主張をためらうことがある。公の仕事に就きながら「私」を守るには大変なエネルギーを必要とする。だからこの本でいう「公私融合」にしても、容易に実現できるものではない。

 

わたしたちは、現代の経済状況、社会を運営している権力そのものに抵抗する姿勢と手段を持ち、それらを強める覚悟が無ければ、公私融合の仕事術は現実のものにできないと知るべきである。職人も中小企業の経営者も、今日風にいえばプロフェッショナルな人である。彼らは、公私融合を信条にしていると言っていい。ただし、いま日本で言われているプロフェッショナルな人とは、滅私奉公を前提とするか、公と私とを合理主義的に区別して猛烈に働き遊ぶ人をイメージしているように思える。それは、望ましい人の働き方、生き方ではない。

 

生き抜くための仕事術
高齢社会という側面でも、公私融合は時代の要請だといえる。高齢者もまた自立せねばならず、しかしそのためにも個人を支える社会システムが必要だ。支える若者や成年者は自立しつつ他者を思いやらねばならない。つまり、老いも若きも互いに支え合い、励まし合って生きていきたい。それには、職場で役割を離れて力を貸したり、借りたりすることが多くなる。老親が病んで家にいるならば、職場を離れられない社員のために社員の誰かが介護に行く必要があるかもしれない。高齢社会では公と私の仕事を自在に務められないと、私生活も組織の運営もうまくいかない。


公私融合をいうわたしに、普通のサラリーマンがそのようなことを考えていると組織では生きづらいと忠告してくれた人がいた。公私融合で働くなどは、夢物語でとても考えられないともいわれた。わたしの体験からもそれは理解できる。特に、現在の企業社会における組織風土、システムで若年勤労者は、まだまだ自己主張が許されない。それでは公私融合を生きづらいから、風土、システムの変更が必要との意見も寄せられている。もっともである。


しかし、自分を生かすためには、どのような境遇にあっても目標を公私融合において自ら条件を整えていくしかない。公私融合の仕事術は、これからの高齢・高度情報化社会にあって自分の人生をしなやかに生き抜くための実践手段であり、武器である。……(後略)

 

森清『仕事術』はじめに より

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(引用ここまで)

 

 

この続きはまた明日に!(^^)/

 

 

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