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愛することと恋すること① 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

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愛することと恋すること① 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

愛することと恋すること① 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

2024/10/12

最近、塾生の一人から、

次のように問われたことがありました。

 

「井上さんが恋愛についてお奨めされる

 二村ヒトシさんの本って、

 結婚されてから読まれた本ですよね?

 結婚される前の20代、30代前半の頃に

 読まれた恋愛についての本で

 お奨めの本って何かありますか?」

 

そういえば、

ちょうど昨日投稿した記事の最後に

シェアした記事は「今日の名言」絡みのもので、

ストックされた情報を

いつでもスピーディに引き出せるような形で

保存することの大切さや

情報の活用方法や処理方法について

伝えたかったというのが目的ではあったものの、

内容は銀色夏生さんの書かれた詩で

恋愛がテーマでしたね。

銀色夏生『詩集 エイプリル』より(今日の名言・その72)

 

 

また、7月に投稿した平野啓一郎さんの

分人主義について紹介した記事で

テーマを具体的に展開するために

二村ヒトシさんのすべモテを紹介しながら、

恋愛についての記事を書いたことがありました。

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(その11)

 

おもいかえしてみれば、わたし自身

こうした考え方にいきなり至ったわけではなく、

二村ヒトシさんご自身

恋愛についての元ネタのほとんどが

橋本治さんの『恋愛論』って仰っていて

ほぼ日のこちらのページなどを参照下さい)

わたしも橋本治さんの『恋愛論』は

初版が出た27歳のときに読んでいるので、

そういうところなど、

わたしが二村さんの恋愛哲学に

惹かれる理由なのかもしれません。

 

 

さて、それで今日の本題なんですが、

20代の頃に読んだ恋愛についての本で、

橋本治さんの『恋愛論』以上に

強く印象に残っているインパクトのある一冊は

栗本慎一郎さんの

『ホモパンツたちへ がんばれよ!と贈る本』です。

 

栗本さんについては、

先月、「統合すること」をテーマに24回書いた、

連投記事の冒頭でも紹介しました。

「統合する」ということ(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』①

(その2)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』②

 

1982年初版の本書に記されているのは、

あらゆる学問を統合し、

「人間とは何か」を解き明かそうとする

経済人類学的な見地に立った

恋愛論と言ってよいもので、

3つめの章にあたる

「恋することと愛すること」を

7回ぐらいに分けてご紹介しようとおもいます。

 

ちなみに、「恋することと愛すること」の章は、

70ページ弱(全体の1/3弱)の分量があり、

・恋をしているあなたのために

・あなたはいかにして愛を知るか

・恋と愛とははっきり違う

・とどめとして———愛と恋のはざまに

という見出しのついた4つの節からなっていて、

本日の記事では、最初の節

「恋をしているあなたのために」前半部をご紹介。

 

(引用ここから)

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恋をしているあなたのために

哲学者キルケゴール、感動の婚約破棄
誰もが一度は真剣に考えねばならず、しかも一生完全には解くことのできない、人生における愛あるいは恋という問題を、できる限りの知識を動員して考えてみたいと思います。知識というより私には若干の苦しい経験があるので、そのとき考えこみ、考えぬいたことから述べていってみようと思うのです。

 

まず私は、人間にとっての愛、あるいは恋とは何かをそれこそいのちを賭けて真剣に考えた先人の例として、普通はあまり採り上げられない、不思議で有名な哲学者の例を挙げてみます。


その人は、19世紀中葉、デンマークの首都コペンハーゲンに住んでいたセーレン・キルケゴール(1813~1855)という哲学者です。彼は、いわゆる実存主義哲学の祖といわれる偉大な人物ですが、生涯を独身でとおしました。主著に『死にいたる病』という名著があり ます。

 

絶望あるいは真理という問題について、これほどまでに深く追究した著作はないと言われるものでもあるのです。言い換えると、人間とは何か、意識とは何かという問題を限りなくラディカルに追究しているものです。


彼は、42歳のとき、通りを歩いていて、そのまま街路上に昏倒し病院にかつぎこまれましたが、兄のペーターの見舞いを拒否して、たった一人の孤独のまま死んでいったのでした。ところが不思議なことに、彼には24歳のとき出会い、26歳で愛の告白をなし、婚約までした素敵な恋人がいたのでした。

 

レギーネ・オルセンという名前の、彼より10歳年下の美しい少女でした。不思議で偉大な恋人キルケゴールのために、今日、歴史に永遠にその名を残しているレギーネは、肖像画によると眼のぱっちりとした、額の広い愛らしい少女でした。


ところが28歳になったとき、キルケゴールは突然、レギーネに婚約指輪を送り返し、愛しているからこそとして婚約の破棄を申し入れるのです。実に不思議なことでした。二人は、まさしく愛し合っていたのです。

 

しかしキルケゴールは、人間にとっての愛という問題を、レギーネという愛する具体的な対象を得てはじめて知るところがあり、無理に別れを求め、生涯にわたる独身を選んだのです。そして、別に兄を嫌っていたわけでもないのに、死の床でも面会しないという形で兄弟の愛をさえ表面的には拒否したまま死んでいったのです。


今日でも、「こんなヤクザな俺に惚れちゃあ、いけねえよ。明治大学の栗本先生のところにでも行きな。安月給だけど、先生稼業のほうがヤクザよりいいんだぜ」といった感じのセリフを吐きたがる人がたくさんいます。

 

しかし、それは、相手の幸せ、不幸せを思いやっているというより、きわめて世俗的な基準を世俗的に採り入れて考えていることがほとんどなので、こうしたセリフ自体も、一種の格好づけになってしまっているわけです。

 

全く同じシチュエーションで、「ろくなアワセの一枚も買ってやるこたあできねえが、俺についてくるんだぜ」と粋がることも可能なのですから。要するに、駄目な男でもついてきてね、と言いたいのが本音なのですから。


けれども、キルケゴールの場合は、もっと根本的なのです。『誘惑者の日記』というような著作を読みますと、恋の衝動に身をこがされている自分とその対象になっている相手とのことを必死になって対象化してながめようとして苦闘している天才の姿が浮かんできます。

 

こう考えなさい——恋人の誕生
この天才がはっと気が付いてしまったことは、愛らしい恋人、17歳の少女(『誘惑者の日記』では17歳)という存在は、はじめからあるのではなく、男と女のある一定の関係の中にはじめて誕生する姿なのだということでした。

 

つまり、男が恋をして、その恋をしている自分のために女を恋人として求め、そのことによりはじめて恋人である「少女という現実」が生まれてくるということです。


もちろん、これからあとにも述べていくように、女性もそれを受け入れ、あるいはそれを自ら望むからこそ、両性の恋愛は成立し、たまたま、それをはばむ社会的関係があれば、はじめて〝悲恋〟になるのが普通なのです。しかし、実は、いかなる凡人でも気が付いていることがあります。それは人間の場合に限って、相手に恋したり、愛したりすることが大変悲しいことでもあるということを知っているということです。


相思相愛で求め合ってはいても、ときおり、ふと悲しげな気分になることがあるのは人間だけの特徴です。ただ、多くの人々にとっては、それさえも恋のムードを高める一手段になってしまい、その先にある根源に触れるところには至りません。

 

その結果、たまたま、本人が幸せだと思えていたまま一生を終わったり、逆に本来何も問題はないと思われていた愛に思いがけない角度からひびが入って苦しんだりということを、いわば出たとこ勝負で行なうという人生を送らざるをえないのです。もちろん、何も考えず、かつ何も障害にぶつからずにそのまま一生を終えるのが、ある意味では最も幸せなことだと言えるでしょう。


しかし、幸か不幸か人間には〝意識〟というものがあります。また、異性に対するだけでなく、たった一人でもよいから、同性をも含めた友人を持ち、せめても心を通わせて死にたいという思いは大変強いものでしょう。

 

19世紀前半という、近代市場社会の成立期に、はやくも天才キルケゴールは、現在、我々が直面している近代社会の崩壊の開始期においてはじめて一般の人々が抱えこまざるをえない問題に気付いたのです。そして、はやくも一人で悩み傷ついて、愛するレギーネをそこに巻き込むことを避けて、婚約を破棄したのだと思われるのです。


いうなれば、キルケゴールは、愛というものが持っているそもそもの虚構性に気付いてしまったということです。だからこそ相手をまさしく愛しているがゆえに、婚約から結婚という形の中でむしろ失ってしまうであろうことを恐れて、生涯の独身を選んだのです。

 

これが、いったい何のことなのか、この章を通じて、行きつ戻りつしながら考えて、最後にはわたしなりにたどり着いた〝正解〟を出しておくことにしたいと思います。

 

婚約をして結婚する。それが本来の幸せなのかどうか。兄弟だから世に決められたように交流をし合う、それが果たして根本的に考えて幸せなのだろうか。いま、時代の巨大な転換を目前にして、単婚小家族制や家族のあり方などについても厳しく根源が問われ、我々凡人でさえも厳しい対応が迫られている問題を、一人の天才は天才である悲しさではやくも気付き、悩んでしまったということを説明していきたいと思います。

 

むろんキルケゴールの場合も、問題の根源に気付かなければそれでよかったのです。人間は、いかなる場合も、知ってしまえばそれに従うべきです。だから知らぬほうが幸せということもあるわけです。


「人がなんと言おうとも、私は私の原始性を主張する」と言ったのが、このキルケゴールだったのでした。通常の愛や恋の演技の嘘に気付けば、それはそれで仕方のないことだったということになるのが、この章の最後に至るまでにはおわかりになることでしょう。

 

言うなれば、哲学者セーレン・キルケゴールの愛は、恋のレベルを超えたために〝悲恋〟に終わったということです。なぜなら、恋とは恋をしている自分のために相手を求めるものであり、愛とは自らのすべてを与えてでもその相手を支えようとするものだからです。


恋する若者は、盲目的に相手を求めます。もちろん、恋する娘を殺してでもということはありません(ときにはありますが・・・)。相手が死んでは、やりたいこと(?)もできませんから。そして、その娘も若者に恋してくれればいうことはない、ことになります。二人は、はた目もかまわず求め合い、美しい恋愛だと誰からも祝福されるカップルの誕生、ということになります。

 

昔から、こうした若者たちの恋愛は、詩や小説で美化され、ロマンチックに語りつがれてきました。しかし、これは要するに、人間の動物的な反応行動にすぎないのです。ちっとも特別に美しいとか立派なものであるとは言えません。

 

相手が美しい若者や娘だと胸をときめかせ、せつなくやるせない気持になるのに、しわくちゃの老婆や大プス小ブスでは嫌悪感が湧いてしまうというのでは、よく考えてみれば実に勝手な「反応」です。大ブスと恋をしてこそ美しいということでなければいけません。

 

こう考えなさい——恋は生殖
相手が老婆ではなぜいけないのかといえば、それでは恋が最終的に生殖行動に結びつかないから、体内の「反応」がストップされているわけです。そのようなわけで、だいたい生殖可能な年齢の娘や女性(15歳ぐらいから45歳ぐらいまで?)が恋の対象となります。おぞましい話ですが、セックスの行為自体は、青年と老婆でも可能でしょう。

 

男性はペニスを勃起させねばなりませんから、その点で肉体的な限界を背負っていて、老人になるとセックス不能になることがあります。少なくとも、弱くなります。けれども、場合によるとなんとか老人と少女でもセックスは可能なこともありえます。しかし「普通」、それは行なわれないし、行なわれても美しい行為だと賛美されることはないのです。


これはおかしいではありませんか。恋とはもともと、自らの体の深い深い内部からある特定の異性の相手を求めることなのです。そして、それはしばしば外見の美しさがきっかけになりますが、何を美しいと見るのかという判断も決して理性でなど得られないことも明らかです。ほんとうなら、相手は誰であっても美しい行為だと言われねばならないではありませんか。

 

けれども、青年は老婆を美しいとは見ないし、少女は老人に抱かれることをめったに夢見ません。私のゼミの女学生は別ですが。また、同じ年代でも、人によって多少の差はあるものの「美しい」相手を求めます。その「美しさ」の基準がしばしば共同体全体で決められてしまっていることも気付かずに。

 

そういうわけで、ここで恋というものをまとめてみると次のようになります。

 

恋とは、何か自分では制御できない体内の生物的な衝動によって突き動かされる行為であるということがまず第一。自分が、外見の美しさに異常に反応する(つまり面喰い)場合は、こうした要素が強いと考えるべきです。外見あるいは外観からくる衝動に弱いというのは、もうひとつ別の型もあります。

 

男性は一般に、女性の肉体の外形(ヒップラインとか乳房の形)に強く反応するものです。また、ウチのゼミの学生のように性器の外形を見ただけで興奮することもあります。世間にストリップ劇場などが商売として成り立つゆえんです。


ところが女性のほうは違います。いくら面喰いの女性だとて、3000円も5000円も出して男だけが出てくるストリップ劇場に入りびたり、出演者の男性がオナニーしているのを見て、自分も暗闇で密かにオナニーするということはありえないわけです。世の中、物好きはいますから、男だけのストリップ小屋を作っても入場者ゼロということは絶対にないでしょうが、絶対に採算はとれますまい。


つまり、男のほうが外見や性器の外形に鋭く反応するわけですが、要するにそれは恋が最終的には人間の種の維持のため、つまり生殖のためにプログラムされた行為だからです。男は、ある特定の瞬間に男の性器を怒張させて、女性に対する疑似攻撃行動をとって、最終的には射精という行為を行なわねば生殖の目的には達しません。そして、その同じ理由で、老婆とセックスしても子どもはできません。


だから、老婆は美しくなく、18歳の少女は美しく見えるのです。18歳の女性が相手なら子どもができます。でも、80歳の老婆はそうはいきません。だから、男の目に美しく見えないようにプログラムされているわけですが、ときどき天才がいるので、シワクチャのお婆さんに恋をしたりすることがあっても、本質的には別にかまわないと私は思うのです。

 

栗本慎一郎『ホモパンツたちへ がんばれよ!と贈る本』恋することと愛することより「恋をしているあなたのために」前半
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(引用ここまで)

 

明日の記事ではこの続きにあたる

「恋をしているあなたのために」後半部を

投稿する予定です。

 

おたのしみに!(^^)/

 

 

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