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愛することと恋すること② 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

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愛することと恋すること② 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

愛することと恋すること② 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

2024/10/13

昨日10/12投稿した記事の続きです。

 

7月に分人主義的な考え方の紹介を目的に

連投していた記事で、

テーマを具体的に展開するために

恋愛を素材に扱ったことがありましたし、

また、昨年11月、

〝教えない性教育〟をテーマに連投した記事でも

同様だったんですが、そのいずれも

メインテーマから外れてしまうという理由から、

恋愛、パートナーシップというテーマに

フォーカスする記事を書けずにいました。

 

ただ、先月9月に書いた、

〝統合すること〟をテーマにした

24回の連投記事でも

J.クリシュナムルティの愛についての文章や、

(その11)クリシュナムルティ『既知からの自由』①

(その12)クリシュナムルティ『既知からの自由』②

雲黒斎さんの愛についての考え方なども

紹介したので、

(その9)雲黒斎「フラットランドについて」①

(その10)雲黒斎「フラットランドについて」②

その記事をご覧になった方であれば、

恋愛、パートナーシップというテーマだけに

フォーカスした記事を書こうとする試みが

半端でなく難しいことは

おそらく感じて頂けていることでしょう。

 

そこで、さまざまな学問分野を統合し、

包括的に捉えようとする

経済人類学的な見地に立った恋愛論として、

栗本慎一郎さんが1982年に出版された

『ホモパンツたちへ がんばれよ!と贈る本』

3番目に置かれた章

「恋することと愛すること」を

まるごとご紹介しようとおもいたった次第です。

 

ちなみに、「恋することと愛すること」の章は、

本書全体の1/3弱にあたり、

70ページ弱、約35000文字の分量があり、

・恋をしているあなたのために

・あなたはいかにして愛を知るか

・恋と愛とははっきり違う

・とどめとして———愛と恋のはざまに

という見出しのついた4つの節からなっていて、

今日の記事ではまず、最初の節

「恋をしているあなたのために」後半部を。

 

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ウマとの結婚が許されないのは、いったいナゼか?
相手を限りなくいとしく思う気持は、愛ではなく恋なのです。相手を求め、自分の生殖行動の相手としたいということに尽きます。だから、恋というものはすべて、ある意味では味も素っ気もない動物的なプログラム化された行動だということを知っておくべきです。


これを、多くの文学が賛美してきたわけですが、それも要するに、人間の文化が全力をあげて人間という種族の保存を目的としてきたということなのです。美しいものだと謳いあげておかないと、ウマやネコに浮気する人間が出るからなので、実際、歴史上そういうケースはいくらでも数えあげることができるのです。もともと文化というものの本質が種族の保存なのであって、人間を生かし続けることを最高の目標として、そのためにすべてを動員する装置というわけです。言語とか文学というものは、その主なもののひとつです。


人間だけが文化を持ち、それゆえに他の動物や植物よりも優れているという幻想が嘘だったということは、ここ10年ほどで人類学や心理学、哲学の進展により急速に明らかにされてきたことです。人間こそ、動物の中でなぜか本能に従ってだけでは生き抜いていくことのできない「本能の形式の壊れた」動物になってしまっていたのです。

 

だから文化という必要悪を作り上げて、そのままでは右に左にブレてしまう動物的本能を抑えこんで、なんとかやっと生き抜いてきたというわけです。ウマの巨大なペニスを見てうっとりしている若い娘に、「ウマと結婚してもウマくない。だいたい、戸籍が入らないよ。それにペニスも入らないかも知れない」と説得する。これが文化の本質というわけです。


この過程で、人間の文化は神話や伝承、原始的な法や習俗というものを作り上げ、そのなかで本能の抑えこみを一時的に美化することを試みました。たとえば、心理学者フロイトの研究では、人間もある意味では家畜のウサギやイヌなどと何ら変わることなく、親兄妹、母子のあいだでもセックスすることを求めているのに、これを文化によってタブーとしたということがわかりました。

 

いわゆる近親相姦のタブーというものです。近親相姦がなぜいけないのかといえば、それをしては共同体内部の他の家族と連帯していくことができなくなるためです。女性が家族内部で「消費」されては困るからです。実際、それだけのことです。

 

一般に言われてきたように、近親相姦をすると異常児が生まれる確率が高いといっても、実際の夫婦生活では二人や三人の子どもしか生まないのですから、はっきり目に見えるほどのものではなかったのです。


このことを、フランスの構造主義文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは「女性の消費の禁止と交換」という概念で説明しようとしました。つまり、ひとつの家族内で女性を消費してしまえば(たとえば、お父さんが娘を使ってしまうこと)、彼女が他家へ嫁ぐことによってできるはずの他家族との連帯が作り出せないから、それを禁止し、自分の家の女を嫁に出し他家の女を嫁にもらうことを通じて、いわば女性の交換をしているというわけです。


これは、人間が生きていく上で、大変重要なことだったのです。なぜなら、家族と家族のつながりを軸にした共同体がなければ人間は生きてこられなかったからです。その家族間のつながりのキーポイントが、ある家族内に生まれた女性が他家族へ嫁いでそこの人間になるという行為だったのです。

 

文化人類学の研究の示すところでは、この女性の「交換」のシステムがきちんとできあがっているところほど、人間は安定して暮らしているのです。レヴィ=ストロースの名著『親族の基本構造』などは、このことを明瞭に示してくれるものです。


というわけで、人間の文化はすべて動物的本能を抑えて生きていくことを賛美するわけですが、実は、そういう中においても、ある程度本能に衝動的に従える範囲内にあって、なおかつ種の維持に役立つという数少ない貴重なものが男女の恋だったと言えます。

 

男と女が恋をしても、セックスをしなくなっては子どもは生まれません。それでは種族は維持できなくて困るわけです。男も女もときどきは興奮してくれないと、子どもができなくて困るというわけです。


また、どんな男あるいはどんな女と結婚してもよいということになると、強くて環境に適応できる子どもも生まれません。一般的に、女性が高年齢の場合、丈夫で強い子どもは生みにくくなります。若くて美しくて輝いている娘はやはり輝くような赤ン坊を生んでくれるでしょう。

 

そこで美しく感じるとか、肉体的な魅力を感じさせるとかのプログラム化を通じて恋愛行動を誘発し、より強い子どもを作らせることになったのです。これも文化です。要するに文化というものは、けっして人間が意図的に作り上げたものなどではなく、やむをえず生きていくためのプログラムなのです。たいしたものではないのです。

 

ところ変われば、まるっきり変わる恋人の価値
だから文化人類学では、文化というものを人間が対象を認知する集団的システムだと規定しています。そしてそのシステムは、我々人間の意識できる範囲の外にも及ぶわけです。すなわち、深層の無意識のレベルや、吐き気がするとか、おいしそうでよだれがたれるとかの生理的反応をも含みます。

 

我々日本人はバリ島の人たちが最高のごちそうにしている可愛らしい子豚の丸焼き(それはまさに姿焼きです)を見て、まずよだれはたれませんが、バリの人々はデレッとたらすわけです。普通の日本人、それに欧米人も、豚の丸焼きはちょっと生々しすぎて、自然によだれがたれるというわけにはいきません。


私の娘(小学校3年生)は、相手の悪口を言うとき、なぜかいつも「豚の丸焼き」と毒づいていました。それが、短縮されて、「ブタマル」になっていましたが、バリ島に連れて行って、 本当の豚の丸焼きの前に立たせたら、すっかりしょんぼりしていました。生々しすぎたのです。

 

しかし、文化というものは、ところ変われば品変わるということわざをはるかに超えるものです。ところ変われば、まるっきり変わるのです。男と女の生活における役割がまるで欧米や日本と逆になっている文化、あるいは男と男が「結婚」するほうが偉いというシベリア・チュクチ族文化などもあるわけですから。拙著『幻想としての経済』のうち「同性愛の経済人類学」をご参照ください。


こんななかで、ある若者が、全く自主的に一人の娘を美しいと思い、好きになったとしても、 それは人間が、あるいはその共同体が生きていく上でのプログラムとしての文化に規定されたものにすぎないものなのです。

 

バリ島で絶世の美人と思われている娘がイギリスでは色黒鼻ペシャのドジブスと思われてしまったり、白人社会では最もセクシーなタイプの美人と見なされていたソフィア・ローレンとかファラ・フォーセットなどが、日本の農村では、ただの大口のガリガリ痩せ女としか見られなかったりしてもなんの不思議もありません。美しさの基準も、文化によってまったく違うからです。

 

同じ文化の中だとて、50年前の大人気女優の写真を見て、若者たちはなぜ自分のおじいさんたちが夢中になったかが理解できないでしょうし、かつまたそのおじいさんが自分の孫が夢中になっているガール・フレンドの顔を見て、「なんだこりゃ、ウチのバアさんのほうが何倍も美人だった。この程度のブスは、昔、振りはらうのに苦労したのに……」と嘆くことにもなるのです。


そして、いつのまにか時代はめぐり、昔々の大女優とそっくりな女優がスターダムにのし上がってきたりします。今は、1920年代のグレタ・ガルボのような瞳の美しさが印象的な女優が再び脚光を浴びつつあるようです。

 

だから根本的には、自由な恋などというものは論理的に成立しえないものです。恋するということ自体、何か自分自身の外側から突き動かしてくるものがあることを意味しています。


では文化によって違う美しさの基準とは、何によって決められるのでしょう。基本的にはその文化の中で生き抜く〝強さ〟によって決定されているようです。黒光りする肌、たくましい肩が美しいのはアフリカの荒野であるし、どことなくこころの中で何かに耐えているような瞳の光、弱い肩の線などが美しく感じられるのは19世紀末や1920年代、そして今日の1980年代から90年代の頽廃的な消費社会というわけです。

 

恋をしているあなたに!――私の忠告
つまり、「美しい」とか「素晴らしい」という人間の感情も、文化だとか時代だとかに規定されたものなのだということです。自分が全く一人だけで、自分の純粋な感情で、一人の娘(あるいは若者)を恋した、と信じたとしても、それは、実は何か外からの力によって、そうさせられているのがほとんどなのです。

 

相手のことを思いやってというものではありません。恋の実体とはそういうものであり、ゆえにエゴイスティックで本能的なものです。たまたま人間にとっての本能的な行動のうち、恋は唯一、文化によって許容されるものであるがゆえに美化され、賛美されました。


けれども「恋は盲目」という言葉にもあるとおり、ある一人の異性に夢中になるがあまりに自分の他の家族や友人などに思いをいたさなくなるというのは、結果的ながらそれらの人々を「攻撃」したり、「排除」したりすることになるわけです。恋のために、自分を愛してくれた母親、かつまた自分もこころから愛している母親を捨ててしまうというようなことが起きます。

 

だから、純粋な恋などというものは単なることばのあやであり、よく考えてみれば、それほど美しい意味で存在しているものではないことがわかるでしょう。ただし、美しいとか美しくないとかの「価値判断」をはずせば、それは人間としてやむをえない行為ではあり、無意味に嫌ってみたりしてもいけないということです。


自らの体内から吹き上がってくる強い自然な感情があるのに、やたらと抑えこむのは一般的に言って無意味なことです。もしも許されるのなら、そうした内的衝動に素直に従い、妙な気取りを排することが望ましいでしょう。

 

私は、美しいとか美しくないとかいう価値判断をしたり、そうした感情そのものに自己陶酔したりすることは、たいていは他人にひどく迷惑をかけてしまいますよ、と警告しているわけです。そして、このことを知っていれば、いわゆる「失恋」や「悲恋」に必要以上に傷つかなくてもよくなるでしょう。


ただし、私は「必要以上に」という限定をここに付しておきます。人間には、わかっていてもどうしようもないときや、知っていても突破できないことが最後にはあるものなのです。私の忠告は、少なくとも、そういうギリギリでないときぐらいは、ひどい崖っぷちには立たないようにしましょうね、ということなのでしょう。

 

相思相愛の不幸せ
さて、相思相愛ということばがあります。現実にはなかなか自然に起きるわけではないケースですが、これは、幸せなケースなのでしょうか。とんでもない。それは不幸せの極致です。つまり、野村胡堂作『銭形平次捕物控』に出てくる相思相愛の夫婦、平次とお静のカップルなどというのは、あらゆる意味でガラッパチならぬ嘘ッパチなのです。


相思相愛は、ある瞬間にはたしかに現実に起こりえます。お互いの外形的嗜好がピッタリ一致するのです。けれども、この場合、お互いは相手を求めるわけですが、要するに「求める」だけで長期に続くべき結婚生活を維持できるでしょうか。それは無理です。恋は相手を得るために、自分を向上させて見せようという欲求を同時に生みます。

 

ゆえに、男性はより生産的にたくましくなり、女性は相手に対しても二人のあいだの子どもに対してもより優しく接していくようになり、種族及び家族の維持において非常にうまくいくというわけです。その場合、どちらか一方が、より強く「惚れ」ていて、より強く努力すべく緊張感を持っているのがよいのです。


ここで努力とか緊張感とか言いましたが、「恋」している男(女)にとっては、それは緊張でもなんでもなく、むしろ喜びであるわけです。けれども双方がそうするというのは、実は現実的にも理論的にも無理です。一方が多少なりとも逃げ気味で、はじめて他方の緊張感も本格的になるのが、この行為における特徴だからです。当たり前のことですが、双方が求めるばかりで、両方が自分のいいところばかりを見せ合うというわけにはいかないからです。


私たちの考察によると、人間はふつう男が女を求め、女のほうは男が自分を求めるのを演出するように作られているようです。女性が相手の男性を求めていたとしても、そうは表現せずに男のほうからそう言わせるように仕向けるのが良いわけですから、それも形の上では相思相愛にはなりません。


要するに、恋というもの自体が本来エゴイスティックなものなのに、両方がお互いに恋をして、恋の自乗になる相思相愛というのは、およそ安定できないものなのです。もし、お互いに相思相愛に陥ったなと思ったら、「この状態はかえって危険なのだ」と思ってもらわねばならないのです。

 

つまり、最初に紹介したキルケゴールの「悲恋」とは、この相思相愛の〝苦しみ〟と〝悲劇〟から脱する悲しい努力の結果だったのです。あなたは、「彼女がいる」あるいは「彼氏がいる」という〝不幸せ〟な状態を決して喜んではいけないのです。

 

栗本慎一郎『ホモパンツたちへ がんばれよ!と贈る本』 恋することと愛すること より「恋をしているあなたのために」後半部分

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(引用ここまで)

 

明日の3回目ではこの続きにあたる2番目の節

「あなたはいかにして愛を知るか」の前半部分を

投稿する予定です。

 

 

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