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愛することと恋すること③ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

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愛することと恋すること③ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

愛することと恋すること③ 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論

2024/10/14

昨日10/13投稿した記事の続きです。

 

栗本慎一郎さんが1982年に出版された

『ホモパンツたちへ がんばれよ!と贈る本』

「恋することと愛すること」の章を

7回にわけて紹介しようとしているんですが、

今日で3回目となりました。

 

「恋することと愛すること」の章は、

全体の1/3弱にあたる70ページ弱の分量があり、

・恋をしているあなたのために

・あなたはいかにして愛を知るか

・恋と愛とははっきり違う

・とどめとして———愛と恋のはざまに

という見出しのついた4つの節からなっています。

 

一昨日、昨日と2回に分けて最初の節

「恋をしているあなたのために」を紹介し、

本日の記事はその続きになるので、

未読の方はまずそちらから先にご覧下さい。

①恋をしているあなたのために(前半)

②恋をしているあなたのために(後半)

 

 

さて、本日ご紹介するのは、

2番目の節

「あなたはいかにして愛を知るか」の前半です。

 

(引用ここから)

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あなたはいかにして愛を知るか

赤い瞳の人間に会ったとしたら
今日、私たちはことばの氾濫する世界に生きています。これは決して、人間が人間として出発したはじめからそうだったわけではありません。最初は、使われることばは少なく、次第次第に増えて今日にまで至ったのです。では、ことばが増えることは進歩であり、進化なのでしょうか。

 

そうではないのです。むしろ逆に、人と人とのあいだのコミュニケーションが人間の社会の発展や進化につれて、かえって非効率的になってきたため、そこにそれを補うあらゆる技術を人間は考案せねばならなくなったのです。その主な技術が「ことば」なのです。

 

こうした技術全体を文化と呼びます。だから文化とは、心理学者岸田秀さんによれば、本能に従って生きていく形式を失ったといわれる人間が、生きるためやむをえず採り入れた必要悪なのです。決して立派なものではありません。なくてもよいほうがよいのです。

 

よく理解できないものごとで、ことばを与えてゆかないと不安で不気味でしようがないというようなものに対し、人間は積極的に「ことば」で名前を付けてきました。なぜならそれを使うと、ほんとうはすこしもわかっていないのにわかったつもりになれるからです。

 

たとえば、かつて、戦国時代に織田信長のところへ連れてこられた肌の真っ黒な人間を見た当時の人々はひどく驚き恐れましたが、これを黒人とかニグロとか名付けてみるとなんとなくよくわかった気がしてきます。ましてや、学校で、アフリカには黒人が住んでいて、それがアメリカへ奴隷として連れてこられたというように教えられると、一度もアフリカへ出かけたことのない人がほとんどなのに、わかったつもりになるでしょう。それが「ことば」の役割なのです。しかし、それでアメリカの黒人問題はわかってはきません。

 

また、私たちが全く予想していない暗い路上で、ばったり肌の特に黒い黒人を見たとき、どうしようもなくどきりとしてしまう気持なども理解はできないでしょう。学校の「ことば」では、右翼も左翼も人類はみな兄弟と叫んでいますし、人の心も「ことば」によって土台までも変わると理解しているからです。

 

実は、それは無理なので、肌の色の違い、髪の濃さや鼻の形、体格などの違いからどうしようもなく驚いてどきりとする感情が自然なものでもあることを理解した上で、黒人問題にも対応しなければ、表面上のきれいごとの平等スローガンにしかならないのは明らかです。

 

黒人だから多少わかったつもりでも、肌がグリーンで瞳の赤い人間をもし見たらどうしますか? 赤目人です。そういう人間は、いま知られていませんが、どこかに住んでいるかも知れません。学校で習ったことがないから人間ではないと殺すわけにはいかないでしょう。しかし、思わずどきりとし、こころの中に恐怖と憎しみさえ湧いたとしても人間として生物として自然で素直な反応なのです。異種は敵であり、それに対して警戒をしてみるというのは、自己の種や個体を守る当然の反応だからです。

 

「愛」という「ことば」の成り立ち
「ことば」の意味をもっと追ってみましょう。あらゆるものに名前が付けられています。物だけでなく、すべての人間の行動にも名前が与えられました。たとえば、一人の少年がある少女の前に出ると、なぜかわからずに胸がドキドキし、思わず抱きしめたくなったり、何をするか自分でも不安であるという状態が起きたりするとします。

 

2、3日離れていると、いま彼女が何をしているか気になって気になって仕方がない。生物学的に言うといわゆる保護本能がかき立てられるのだと言えますが、人間の場合、こうした状態の少年の感情や行動の総体を「愛」と名付けるわけです。

 

「愛」と名付けなければ、人はこの感情や行動がいったい何なのかわからず、ただとまどうのです。動物の場合にも、こうした求愛行動は存在します。しかし、そこでは、言い寄られたメスが、自分の考えているタイプと違うとか、次のお見合いのほうがいい男が出てくるのではないかという幻想に基づいて拒否したりはしません。

 

いいか悪いかの判断自体はあるかも知れませんが、自分でもわけがわからず断わるとか、断わったあと、やっぱりあの少年が良かったと思うというようなことはないのです。

 

もちろん、オス同士の闘いは存在します。一匹のメスを争ってオスが闘い、敗れたほうが生命を落とすということは起きます。しかし、強いオスがメスを獲得します。強いというのは、生物的に生きる力の強さですから、餌を取ってくる知恵というようなことはありますが、永年陰謀をめぐらせてついに想うメスを獲得するなどということはありえません。

 

つまり、「愛」も形式がかなりすっきりとしていて、自分でも好きなのだか、好きでないのだかわからんといった馬鹿げたことはないのです。発情期以外は、メスの膣口が閉じてしまうモグラの一種などでは、年がら年中、あるオスに想われているなどという状態がもしあれば面倒臭くて仕方ないでしょう。「うるさいわね。私は、いま閉じちゃってるんだから」と言えるのです。

 

ところが、人間は、発情期が決まっていなくて、いわば年中発情していますし、昼でも夜でも発情できる仕組みになっているくせに、突然、ここぞという場面に限って気ばかり焦ってペニスが勃起せずに駄目だったとかいう馬鹿げたことが起きる厄介な動物です。

 

つまり、生物的には一応いつでも愛情行動(ここではセックスに限定しておきましょう)が可能だという状態を自ら選んで、なおかつなんらかの特定の条件づけをして、それを行なうという形式を保ったのです。それは、逆にいえば、なんらかの条件を備えないとほんとうには発情し難いということでもあります。私は、このことを人間の「パンツ」と名付けました。

 

人間のことを学術的に「ホモ・ルーデンス(遊びをする人)」とか「ホモ・エコノミクス(純粋経済人)」とか言ったりしますが、人間はパンツをはいたサルであるからして、「ホモ・パンツ」と呼ばれるべきである、と私はここで言っておきたい。

 

その「ホモ・パンツ」もパンツを脱げばいつでも愛情行動はできるのです。男性の教師と女子学生が、あるいはその逆に女性の教師と若い男子学生が(オエッ)、教室で学問上のやりとりをしていて、ひょっと両者がその気になれば、机の上の数分間で「可能」でもあります。

 

しかし、やはり単に法律上や古めかしい道徳上の問題からだけではなく、そのように単純に行動するのはまずいのです。「まずい」といったのは、いけない、ということではなく、決して生物的に自然な行動ではないということです。

 

いかなる動物も、発情期その他の脈絡なしに、出会いがしらにポンポンとセックスすることはありません。ましてや、回数を誇って、それを記録しておくとか、あのときの声をテープに吹きこんでおくとかをするわけもないでしょう。

 

つまり世の中にある、非常に簡単に、たくさんセックスをすることがより自然で、表面的な秩序としての文化を変えていくことになるのだ、という通俗アングラ的考えは全くの誤りなのです。

 

もっとも、世のため人のため文化の革新のためにやりまくるのではなく、好きで好きでたまらないからやりまくるというのは全くかまいませんし、むしろ、個々人がその自由な原始性に(他者を巻き込まずに)戻り切るということは、現代社会の虚構のメカニズムを変えるのに唯一有効な抵抗手段でもあるでしょう。

 

でも、好きでやっていることを、権力への抵抗だとか、民族の解放だとか聞こえのよい看板をかけて自ら「ことば」に取り込まれるのはやめましょう。世の中には変わった人もたくさんいます。セックスは好きではなく、パチンコの球を弾くことにのみオルガスムを感じるという人だっているかも知れません。

 

異性ではなく同性でなければつまらんという人がいるのと同じです。その人たちも、個人の原始性へ戻る権利を有しています。それらに差別をつける理由は全く存在していないのです。

 

「愛」ということばから少々脇道にそれました。ここで、愛について基礎的に出した少年と少女の例は、ほんのひとつの例にすぎません。これは、実はことばのレトリックという問題について、優れた説得的な説を展開しておられる国学院大学の佐藤信夫さんの例のとり方をちょっと拝借したものです(佐藤信夫『レトリック感覚』 講談社、あるいは、山口昌男編『説き語り記号論』日本ブリタリカ、所収の佐藤論文ほか)。

 

大歌手と大スターが「恋愛」をしました
愛ということばに対する佐藤さんのつかまえ方がとても説得的で、記号論という言語学の新しい戦略も踏まえ、街に氾濫している青春案内書のレベルとは全く違うから利用させてもらったのです。

 

そこで佐藤さんは、次のようなことを明らかにしています。「愛」ということば (名詞)自体がひどく曖昧なまま、とりあえずとして人間によって決められたにすぎないものだったのに、次第にことばが一人歩きして、「愛する」とかの動詞が出てきたりします。

 

それによって、動詞や感情の動きを動的に表現できるもののように思われてきたり、「愛が…する」というように主体を表わしたりするようになるに至る不思議なことばの仕組みを明らかにしてくれているわけです。

 

でも、いかなることばを作ってみても、愛という内容はひとつです。しかも、それは、愛ということばでは、決して表現しえない全体なのです。だから、先の少年のようなある種の衝動を感じたとき、「これが愛なのだ」と自分に言い聞かせたあげく、世の人が愛を感じたときどうするかという本を読んで指針にする人がいますが、全く馬鹿げたことだと言えましょう。

 

「Aというものはこうだと考えましょう」といった解説書や人生論を読んでそれに従ってしまうと、必ずや「愛の全体性」を損ないます。具体的には、自分の思い込みで行動し、相手に対して失礼な行動をとるわけです。相手が優れた人の場合、軽んじられ、嫌がられます。

 

たとえば、すぐに離婚してしまった大歌手と大スターが「恋愛」をしたことがありました。二人は、恋の歌など詠んで交換して、それが週刊誌に載ったことがありました。それを読んだ人々は失笑を禁じえませんでした。どこで教わったのか、まさしく幼い少年と少女の恋歌のような三十一文字だったのです。

 

この二人は、本当に愛し合っていたのではなく、恋をしている自分の姿にうっとりしていたわけです。スターのほうはといえば、アクション映画のタフガイぶりを売っていたし、歌手のほうは大暴力団をバックの大アネゴぶりも板についたものだったのですから噴飯ものはなおさらでした。

 

それを読んで、私がすぐに思い出したのは、長男を殺し、攻め滅ぼした敵将の娘を強引にめとる猛将、武田信玄が、和歌を詠むときには、都育ち風ブリッ子の蝶よ花よという歌だったことです。彼は、そうした歌を作りながら、「ああ、こんな風雅な歌を作れる自分が、戦場では猛烈に闘わねばならない。なんと自分は悲しい存在だろう」とでも思いひたっていたのでしょう。

 

恋をしている二人が、ともに揃って、愛や恋の演技に陶酔していれば、とりあえずは言うことはありません。しかし、もちろんそれもとりあえずであって、本とか映画を通じて、「ことば」としてつかまえた愛や恋のイメージは、どうせほんとうのものではないから、永続はしません。つまり、四畳半や銭湯の現実を前にすると崩れます。

 

もちろん、南こうせつの 「神田川」のごとく、銭湯に二人で出かける姿などが、美しいメロディーで「ことば」化されますと、それでまた、暫時は愛への陶酔が続くというわけです。しかし、それも所詮は「ことば」です。

 

では、結局愛とは何なのでしょう。佐藤信夫さんの挙げた少年と少女の例を援用しつつ述べた内容がすべてでしょうか?

 

栗本慎一郎『ホモパンツたちへ がんばれよ!と贈る本』 恋することと愛すること より「あなたはいかにして愛を知るか」前半部分

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(引用ここまで)

 

明日はこの続きにあたる

「あなたはいかにして愛を知るか」の後半部を

投稿する予定です。
 

 

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