30年積み上げて新たに気づいたこと(「きぼう新聞」インタビュー・第5回)
2021/09/29
9/25からこの寺子屋blogでは、2017年に「きぼう新聞」に6回にわたって連載された、わたし井上へのロングインタビュー記事をご紹介しています。
今日は5回目になるんですが、このインタビュー記事を初めてアクセス下さった方は、前回までの記事をぜひご覧いただいた上で本日分をお読み下さい。インタビュアーは安永太地くんです。
第2回「井上さんのルーツと〝教えない教育〟に出会うまで」
第3回「教えない教育とは?」
(記事、ここから)
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淡々と丁寧に、それを教育の世界で30年以上積み上げてきた井上さん。そうした井上さんが、やや興奮気味に語る「新たな気づき」について聞いてみます。
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安永:セルフデザインという言葉だと、夢とかビジョンとか未来のイメージがあるんですが、実は主軸は「今」にある。大事なことは、 どういう風になりたいかというイメージの方に意識を向けるんじゃなくて、そう思っている「今の自分」の方を観るってことですかね?
井上:そうですね。開塾した頃から、治さない医療の山下剛さんからヒントをもらってはいたんですが、中村教室を開いて以降この2年ほどの気づきで一番大きいのは「時間」に対しての気づきなんです。
多くの人にとって、時間については、過去から未来に向かって流れているという感覚ですよね。こうやって言葉で 「現在」「過去」「未来」と表現すると、「現在」 「過去」「未来」が同等に言語化できてしまう。だけど、実はこの3つは同等ではないんですよ。過去のできごとは、各々の脳内にある記憶でしかなく、未来は妄想であって、存在しているのは「現在」しかない。1分後になったら1分後が現在だし、1年前は1年前が現在。わたしたちは大脳で思考するし、言葉というものを持ったがために、「現在」と「過去」 と「未来」が同等に感じられ、あたかも「過去」と「未来」の間に「現在」が挟まれているようなイメージを持ってしまう。でも、 そこが錯覚なんです。
つまり、「過去」と「未来」の間に「現在」があるのでなく、「現在」の中に「過去」 も「未来」もあるんです。そうやって「現在」 ということを常に意識できていさえすれば、将来ビジョンとか夢とか、あえて設定しないといけない必要性を感じないんですよ。
安永:具体的にはどういうことですか?
井上:歴史学者の阿部謹也さんのことで話してみましょう。阿部さんはヨーロッパの中世史がご専門だったんですね。でも、何百年も昔の、しかもヨーロッパという離れた土地の歴史を研究することと、日本に住んでいる自分がいま生きていることとの間にどういう繋がりがあるのか、若いときからいろいろ考えていたけれど、なかなかわからなかった。
『自分のなかに歴史をよむ』(ちくま文庫)という本の中に、「現在とは何か?」っていう話が出てくるんです。一般に歴史は過去のことを研究する学問だとおもわれているけれど、本来は現在の研究からはじまるべきだ。だから、現在っていうのをちゃんと定義しなければ、過去との関係がはっきりしないって気づいて、現在という時間をどれぐらいの幅で意識しているのか、色々な人に聞いてみるんです。でも、たとえば歴史では「現代史」という区分けがあるんですが、それがいつから始まっているかは、明治維新後であるとか、戦後であるとか、オイルショック後であるとか、学者によってまちまちなんですよ。だから、現在という時間についても、どのくらいのスパンで切り取って言っているのかがみんな違ってて曖味なんですね。
となると、現在と過去っていうふうに区別して捉えようとしてたけれど、実はそれをハッキリ分ける境界線なんていうものはなくて、現在と過去が切れ目のない連続性をもったものだということがわかってくるわけです。そういう中で、現在っていうのが実は過去からものすごく影響を受けていることとか、未来から規定されていることが見えてきて、ヨーロッパの中世について研究することが、まさに自分がこれからどう生きるかを考えることにそのまま繋がっているんだというところまで掘り下げるんです。
そこまでの幅をもって「現在」ということを定義できれば、過去のことであっても、実はこれは現在につながっていることがわかってくるし、過去について考えることが、実はそのまま未来を考えることにつながっているんだと腑に落ちたということなんです。
安永:頭ではどうにか理解できますが、それがどう繋がってくるんですか?
井上:たとえば、わたしたち人間にはさまざまな悩みがあります。その悩みの根源を探っていくと、時間軸で固着している部分があるってことなんですね。たとえば、過去のある出来事にずっとこだわっていたり、未来に対して不安があったり、あるいは現在という時間の範囲を狭く考えて、そこだけにすごく固着しているからなんだとわかってきた。
それで、悩み事のある人への関わり方の基本は、その人がどこで固着しているのか自分で気づいて、その固着を解いて時間軸を自由に行き来できるようにする姿勢が重要なんだと。もちろん、どう対処するかというのは個別に異なるので、口でいうほど簡単なことではないんですけどね。
安永:たしかに、時間軸で問題を抱えている方は多いような気がしますね。
井上:はい。とくにメンタル面の課題は、言い換えると「時間軸に振り回されている」ってことなんですね。1年ほど前から吉本隆明さんの本を読むようになって、時間と空間っていうのがどんなふうにつながっているかがつかめてきました。彼は、人間の心的現象を「純粋疎外」という言葉で説明しているんですが、他の動物にない人間の特質というのは、「時間と空間を自由に転換できること(時空転換)」なんだと。 でも、人間それぞれに得手不得手というか偏りがあるから、時間軸と空間軸と比較したとき、時間軸で捉える方が得意という人もいれば、空間軸で捉える方が得意という人もいるわけです。芸術分野の話にたとえるとわかりやすいとおもうんですが、音楽には始まりと終わりがあって時間芸術という側面が強く、絵画や彫刻などは空間芸術の側面が強いといえるわけです。でも、音をどのように響かせるかということは空間を意識することが必要だし、絵画や彫刻の作品に躍動感を持たせるためには、時間を意識することが必要、というように時間と空間は別途独立して存在しているわけではなく、ひとつのことを別の側面から見て表現したものというか、つながっているんですね。
たとえば、対人関係の問題というのは、人と人との距離感などその人の空間に対する認識パターンが関わっているので、ふつうは空間軸の方から捉えているとおもうんですが、時間軸の固着が解けて折り合いがついてくることで対人関係が変わってくるということが起こり得るし、逆もまた言えるということなんです。
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ここらで一度一呼吸置きましょうか(笑)。 井上さんの30年の積み上げの上での気づきを端的に書いたので、簡単には理解できないでしょうから、何度も繰り返し読んでみて下さい。
そして、遂に次回最終章。この気づきがらくだメソッドとどう関係があるのか。「らくだメソッドとは何か」を紐解く大きなヒントになっているのです。次回!「教えない教育とその真意」どうぞお楽しみに!
【きぼう新聞特派員による後記】
今号は、連載の中で一番理解が難しいところでした。僕は最初聞いた時、分からなさすぎて、頭が一杯いっぱいで、1度目の取材を途中で打ち切り、日を改めて取材したくらいです(笑)。
ここまで読んでみて、読者の皆さんも気づいていると思うのですが、らくだメソッドを通して寺子屋塾でやっていることは、ただの学習塾業ではないんです。 教育や学習、キャリア、対人関係の問題のみならず、医学から生物学、哲学、宗教学、言語学、経済学、アートなどテーマは多岐に渡ります。もちろん、ムズカシイ話ばかりしてるわけではなく、あるときはヒットしているJ-POPの話題だったり、江戸時代の春画だったり、ビールの話だったり、テレビドラマのストーリーについてだったり、話題にのぼるジャンルは本当に幅広く、通塾時もプリントの教科内容だけでなく、さまざまなテーマで対話をするのが日常です。
そして、来客や塾生と一緒になると皆で対話が始まります。井上さんは出会いの偶発性を大事にしていると仰有っていました。このインタビュー時も塾生が偶然訪れ、一緒にインタビューを聞いていました。その場だからこそ生まれる対話があり、気づきがあるんですよね。
そんな調子で対話していてびっくりするのは、どんなテーマになっても、大概の問いに対して井上さんは答えを持っています。どれだけ独学しているんでしょうね、本当に。
ただ、問うたからって簡単に答えは教えてくれません(笑)。あくまでも僕が答えに自分で到達するための手がかりしかくれません。そこにモヤモヤすることは多々ありますが、長い目で見るとそういうモヤモヤって大事な気がするんです。なんだかそういう関わり方って良いなって思うんです。
〈第75号最終話へ続く>
※2017年9月25日発行「きぼう新聞」第74号より一部加筆修正し転載