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教えない教育とは?(「きぼう新聞」インタビュー・第3回)

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教えない教育とは?(「きぼう新聞」インタビュー・第3回)

教えない教育とは?(「きぼう新聞」インタビュー・第3回)

2021/09/27

9/25からこの寺子屋blogでは、2017年に「きぼう新聞」に6回にわたって連載された、わたし井上へのロングインタビュー記事ををご紹介しています。


初めてアクセス下さった方は、前回までの記事をぜひご覧いただいてからお読み下さい。インタビュアーは安永太地くんです。

 

第1回「算数プリントで人生をデザインする塾・・・?」

第2回「井上さんのルーツと〝教えない教育〟に出会うまで」

 

(記事、ここから)

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井上さんの人生の前半戦をお伺いしたところで、 この寺子屋塾の根幹の部分である「教えない教育」 に焦点を当ててみます。 

 

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安永:「教える教育」があって「教えない教育」 があると思うんですが、そもそも「教えない教育」とは何ですか?

 

井上:「教育」と付いているので自己矛盾だという人もいますが、「教育」と付けているからこそ、教えること自体を否定しているわけでなく、何も教えないわけではありません。つまり、「“教えない”っていうやり方の教育」なので、教えないように教えているということです。 
らくだメソッドを開発された平井雷太さんも、「教えたいことがない人には“教えない教育”はできない。」とおっしゃっています。何を教えたいかが自分で明確に自覚できていない人にはできない。教えたいことがあって、それをストレートに教えてしまうと伝わらないと分かったとき、いったいどういう伝え方をすればいいのかって考える。スタンスとしては「押してダメなら引いてみな」という感じに近いですね。 
つまり、教えるっていうのは、言い換えれば、人に何かを分からせようとすることですよね。勉強がよくできて、教えてもらいたがっている子どもにはいいかもしれないけど、現実にはむしろ少数派。教えるという一つの方向だけを良しとしてやっていくと、勉強が嫌いな子どもにとっては、そういう姿勢はうんざりというか、結果として何も伝わらない。 じゃあどうするのか、っていうのを徹底的に考え抜くことで「教えない教育」が生まれたっていう風にも言えるんです。 

 

安永:具体的に、どう「教えないで教えて」いるんですか?

 

井上:前にもお話したように、ここは“セルフデザインスクール”っていうコンセプトでやっていて、自分自身をデザインする「道具」と「場所」と「機会」を提供する学びの場ってことなんですが、教育に関わる人が積極的にできることって、煎じつめて言うとこの3つくらいだろうって思っているんです。
具体的にその道具としてメインはらくだメソッド、 インタビューゲーム、考現学、その他に経営ゲーム未来デザイン考程、そしてこの教室にたくさん並んでいる本などもそうなんですが、これらがこの場に常に準備されている状態にあって、開室時間には常にわたしがいるということが大事なわけで。

 

安永:どんな場ですか?

 

井上:この場で一番大事にしていることは、一人ひとりの多様性。何を学ぶべきかというそれぞれの学習課題はみんな違うから、わたしが明確な目的をもって、教えたいことを一律に教えたところで、あまり意味がないんじゃないかっておもうんですよ。なぜなら、この世は謎だらけというか、学ぶテーマは星の数ほどあるし、わたしが教えたいことにしたって、それこそイッパイあるわけだから、そうしたことをひとつひとつやっていたら、時間がいくらあっても足らなくなってしまう。何を学んだらいいか、外側ばかり見て物色してる方が少なくないんですが、実は学習者一人ひとりが自分の内側を見て、自分自身について知ることが先・・・つまり、各々が自分が何を学びたいのか、何を学ぶべきかを自問自答し、固有の自己課題を見つけながらそこにチャレンジしていくのが、一見遠回りなようで実は一番早くて確実な道なんじゃないかと。そもそもわたしという一人の人間が、そうした問いのすべてに正解をもっているなんてことはあり得ないのですから。

 

安永:各々がセルフデザインを自分でするしかない。確かに答えなんて分からないですね。 そんな関わりの中で、井上さんの仕事って何ですか?

 

井上:「セルフラーニングは一人ではできない」って平井さんが言われているんですが、その言い回しをそのまま頂いて言うなら「セルフデザインは一人ではできない」んです。指導でも支援でもなく...つまり、この場は上からでも下からでもないフラットな対話の場で、セルフデザインにとことん付き合う伴走者のような存在が大事っていったらいいかな。子どもの頃のイチロー選手にとってのお父さんのような。
インタビューゲームのルールをそのまま教室のルールにしているんですが、「教えない教育」っていうのは、学習者の「問い」から始まるんです。 だから、「どんな問いを投げかけてもいい」というルールの共有は、とりわけ大事なんですね。でも、「何を聞いてもいい」ということは、わたしにしてみれば何を問われるかわからないわけだし、わたし自身がそうした問いについて常に掘り下げていないと答えられないので、いつ、どんなことを問われても答えられるよう常にシミュレーションし準備しておく...それがわたしの仕事だと思っているんです。

 

安永:学習者である塾生の側からすると、どうしたらうまく問うことができるかにチャレンジしたり、セルフデザインしていく上でのヒントをもらったり、一息ついたりできる場所...それが寺子屋塾なんですかね?

 

井上:そうですね。

 

安永:算数プリントを入口としながらも、単なる教科学習にとどまらず、人生上のありとあらゆる問い...たとえば「人生において大切なこととは何か?」とか、「自由とは何か?」とか、そうしたさまざまな問いへの受け答えを通して、各々がセルフデザインしていく「対話の場」なんですね。

 

井上:はい。 

 

安永:そんな仕事って聞いたことありません(笑)。始めた当初からこうなると思っていましたか?

 

井上:思っていませんね(笑)。

mmmmmmmmmmmmmmmmmmm

どうやったらこんな仕事に、こんな寺子屋塾になったのか。次回はその成り立ちを伺いましょう。 

 

【特派員後記】 
この章からは、インタビューの裏話や僕自身の塾生としての視点も交えながら特派員後記を書きます。

まず、僕が寺子屋塾に通い始めたのは2016年3月。約1年半前になります。それかららくだメソッドの「教えない教育」で学んでいます。実際に何をするのか、と気になる方がいると思うので、少しその話を。 
最初「おためしプリント7種類」をやり、その結果からどこから始めるかを相談して決めます。 僕の場合は小学校3年生の後半からでしたが、すべてのプリント毎に合格の目安時間が設けられているので、先に進むかどうかは、かかった時間やミスの数を考慮して、「自分で判断」できるようになっています。ただ、記事にあるように大人の場合は、小学3年生の算数の問題が解けないことはないので、算数を学習するというよりは、算数を通して「他のこと」を学習しています。その「他のこと」とは一人ひとり異なりますが、例えば、僕の例をあげると次のような感じです。今までの学校教育とは異なり、らくだメソッドは自分で進度を決めます。学校では学習指導要領によって、学年別に学ぶ内容が一律に決められているんですが、らくだはそうはいきません。自分でプリントを決めて、自分で取り組み、自分で振り返り、自分で進むかどうかを決めます。よって、今までにそういう学習をやったことがない僕には「問い」 がたくさん生まれます。自己評価とは何か? 合格の基準とは何か? 学習とは何か?・・・.等々、週に一度の面談時には、このように内から出てくる「問い」をもとに対話し、深めています。 
今回のインタビューでも「教育とは何か?」といったテーマについてのやりとりも出てきました。こういった場では、あらかじめゴールが設定されているわけではないので、良し悪しとか正しいか間違ってるかではなく、自然と本来の役割やそもそも論の話になっていきます。井上さんのお話しの一部を抜粋すると、「今の時代は、教育・福祉・医療というように分野がカテゴライズされすぎている。近代以前にはそもそもそんなカテゴリー分けはなかった。日本の場合は、お寺という場が地域コミュニティに存在していて、その3つの役割すべてを担って有機的に機能していた。「ホリスティック教育」なんて言い方もあるんですが、中味が伝わらないので、〝教育・福祉・医療の相互乗り入れ〟なんて言い回しを使うこともあり、そんなイメージで寺子屋塾という場を開いている。」確かに、教育の問題を教育のフィールドだけで考えようとすると行き詰まってしまう感じがある。誰しもが必ず一度は考える「教育」のこと。さて、教育とは何か、皆さんとも話してみたいですね。
《次号につづく》
 

※2017年8月25日発行「きぼう新聞」第72号より一部加筆修正し転載
※冒頭の画像はきぼう新聞のロゴマーク

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