20代前半に出会った仏教の本『青春のアーガマ』のこと
2021/10/08
一昨日の投稿記事「お釈迦さまが実践されたこと」は、わたしが仏教をどう捉えているかを端的に書いたものだったんですが、世間で仏教学と呼ばれているようなアカデミックな学問を踏まえた内容ではありません。
それと、学習塾のblog記事にいきなりお釈迦さまの話が登場することについて、いささか唐突に感じられる向きもあるかもしれず、昨日の記事「らくだの教室はお寺のようだ」では、わたしの仏教観が、どんな情報と出会って形成されてきたか、その一端に触れる内容の文章を書きました。
今日の記事も概ね昨日の続きとして受け止めていただければとおもいますが、1982年、わたしが23歳の時に読んだ三田誠広さんの『青春のアーガマ』について触れてみようとおもいます。
三田誠広さんは、1948年生まれの団塊世代で、1977年に『僕の世界』で芥川賞を受賞した作家です。
この『青春のアーガマ』を読んだ1982年が、わたし自身にとってどういうタイミングだったかといえば、高校時代に得た病と7年向き合ってマクロビオティックの世界を知ったことで出口らしきものが少し見えてきて、ピアノの技術者の道を歩もうとしていたことを諦め、コンピュータ業界に転職した頃でした。
いま自分が直面しているさまざまな課題を解決するヒントが、もしかすると原始仏教のなかにあるんじゃないかという直観のようなものもあり、20歳の頃には手塚治虫さんの『ブッダ』や高橋信次さんの『人間釈迦』を読んでいたんですが、この『青春のアーガマ』について、三田さんははしがきのところに、次のように記しています。
(引用ここから)
「存在論のようなものをやってみたいという気持ちは以前からあった。10代後半の私に大きな影響をもたらした初期仏教の存在論と、近代物理学の認識論をうまく交叉させることができないか、ということを念頭に置いていた。表題のアーガマというのは、とりあえず〝釈迦の言葉〟というふうに受けとめてもらっていい』(引用ここまで)
ひとことで言えば、本書は仏教についての評論文なんですが、宗教としての仏教をアカデミックに論じたものではなく、物理学や生物学つまり、一般に宗教とは対極の世界にあるとおもわれがちな自然科学の知見から仏教的世界観を論じるならばどうなるか、というものだったわけです。
今から40年近く前の当時としては、こういうスタンスで仏教を論じた書物はオーソドックスなアプローチではないことはもちろん、結構画期的だったのではないかと想像するんですが、仏教の捉え方がずいぶんクリアになっただけでなく、ひとつの学問だけを深く掘り下げようとするだけでは片手落ちで、さまざまな学問を俯瞰しながら関連性を探る姿勢を大切にするわたしの基本的なスタンスは、この頃に形作られたようで、そうした希有な本と20代前半というタイミングで出会えていたことの幸運さをおもわずにはいられません。
本書の最終章「アーガマとは何か」に紹介されているんですが、三田さんが、『青春のアーガマ』を出版される1年ほどまえに、ある有名な仏教学者の全集に挟み込むパンフレットに、依頼に応じて書かれた「釈迦との出会い」と題されたこの文章には、三田さんの仏教観が凝縮されていて、わたしにとっても共感できる内容だったので、その文章をまるごとご紹介して、本日の記事の結びとしようとおもいます。
(引用ここから)
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釈迦との出会い 三田誠広
いま私は32歳だが、この32年間というものをふりかえってみると、さまざまな出会いがあった。むろん人間の基本的な能力は、遺伝と、3歳くらいまでの乳幼児期の学習によってほぼ完成されるものだが、こうして文章を書いている、この能力というのは、結局のところ、この32年間に、何を読んだかということで、決まってしまったのだろうと思う。
文章というものは、ペンを執ればただちに書けるというものではない。その人間が、世界をどのように認識しているかということが、文章の流れや、力強さにかかわってくる。
釈迦と出会わなかったならば、たぶん、いまの自分というものはありえなかっただろう。 ただしそれは宗教としての「仏教」という意味ではない。
宗教というものは、おおまかに言えば、求道者の宗教と、生活者の宗教に分けられる。その意味では、カトリックと上座部(小乗)仏教は同質であり、プロテスタントと大乗仏教もまた等しいと言わなければならない。
求道者というのは、厳しい戒律で自らを苛めぬくことによって、一種の宗教的境地に到達しようとする人々のことである。ここでは「禁慾」というものが、第一の宗教原理になる。生活者というのは、禁慾に耐えられない人々である。人は生きるために、さまざまな罪を犯す。従って彼らの場合には、「贖罪」というものが、根本の宗教原理となる(呪文やお題目を唱えたり、金を出すことで許される場合も起こりうる)。
私は、求道者でもないし、生活者でもない。だから、宗教そのものとは無縁だ。戒律を自らに課すつもりもないし、お題目にすがろうとも思わない。だいたい、許されたい、とも、救われたいとも思っていない。その私が、釈迦と出会ったということを、自分の人生の中の最大の邂逅だと考えているというのは、奇遇としか言いようがない。
私が出会ったのは、人間としての釈迦であり、釈迦の言葉そのものだ。
例えば、イエスは預言に従って十字架上で死ぬが、これはイエスという人間が、宗教という巨大なものに圧し潰される瞬間だと、私には思える。宗教家ではないが、ソクラテスは、自らが信ずるデモクラシイというシステムを護るために、毒盃をあおって死ぬ。これもまた、ひとりの人間が、巨大なものに圧殺された瞬間と言えるだろう。
釈迦は、このような殺され方はしなかった。釈迦は天寿をまっとうし(キノコを食べて死ぬわけだが、80歳をすぎれば天寿といえるだろう)、そして入滅する。だが釈迦は、イエスやソクラテスのように、自分の死、あるいは自分の人生に、意味づけしようとしない。
また、弟子たちが、死の病に倒れた釈迦を悲しむのを見て、何を悲しんでいるのか、と尋ねる。自分を頼みとするな、ただおのれのみを支えとして修行せよ、というのが、釈迦の最後の言葉だ。
しかし、結局のところ、弟子たちは、釈迦の遺した戒律のみをおもんじ、釈迦の遺骨を尊ぶ。そしてついには、仏像などというものを作りあげてしまう。
戒律や、遺骨は、ヌケガラにすぎない。そのようなものに意味をもたせた瞬間から、釈迦の教えそのものは失われ、「宗教」としての仏教が始まったと言えるだろう。
釈迦はけっして、そのようなことは説かなかった。これがわたしの教えであるというものがない、というのがわたしの教えである――という言葉が、初期仏典の中に記されている。
例えば釈迦は、慾に目のくらんでいる人には禁慾を説くが、むきになって禁慾している人には、禁慾しなければならないというこだわりから解かれなければならないと説く。
釈迦には、悲壮感がない。私は、悲劇的な英雄というものには、人の心をたぶらかす、インチキくささがつきまとっているように思う。言葉が至らない部分を、自棄的な、派手な行為でごまかしているように思う。釈迦には、そういううさんくさいところがまったくない。
釈迦は、おおらかで、自信がみなぎっている。そしてまた、権力的なところがまったくない。自分にすがれば、救われる、といった言い方を、けっしてしない。ひとりひとりが努力しなければならないということを、死ぬ間際まで説きつづける。そのような釈迦の姿に、私はうたれるのだ。