無双原理『易』とは何か
2021/10/23
一昨日、昨日と桜沢の『無双原理・易』をご紹介してきました。
『無双原理・易』第1章は、「そもそも易とは何か」「易経とは何か」に言及し、本書では何を論じたいのかを示している総論にあたる部分です。
若い頃から易に関する沢山の書を読んで、結局何も得ることはなかったが、自身の説く食養に、陰陽の概念を活用することをおもいつき、それが結果として聞いた人にも分かりやすく伝わることとなり、また桜沢自身もそのことで、易そのものが深く理解された、と告白しています。
昨日の記事にてご紹介した無双原理12定理で使われる陰陽と、易経に書かれている陰陽とは異なる部分があるため、その違いに注意する必要があり、あくまで、易を理解するひとつのアプローチとしてではあるんですが、桜沢の易に対する見方や捉え方、活用方法は大きな示唆に富んでいるように感じました。
以下、第一章の約1/3にあたる冒頭部分をご紹介。
(引用ここから)
ーーーーーーーーー
私は、二十歳ごろから易に関する書を読み始め、古いものも、新しいものも手あたり次第、金の許すかぎり乱読した。ごく低級通俗なるものから、ごく高級なものまで差別なしに、易経も十翼も、また、いろいろな秘伝、秘書となっていた写本も、たくさん、そして何度も読んだ。そして結局、いかに了解したか、それらによって何を知ったか、と云えば、実に何をも知ることができなかった、いかようにも了解することができなかった、と白状するよりほかがないのである。もちろん、漢文の素養が足りないからではあるが、注釈つきでも、純粋の和文でも、やはり何ものをも得ることができなかった。それでも、私は易を捨て去るほどの勇気は持っていなかった。
ところが、十年あまり食養(食養とは、生物学的環境、すなわち自然を、生理学的環境、すなわち人間に変化せしむる現象もしくは行為であって、その行為の唯一の正しい方法が、後者を前者に適応せしむるにあること、云い換えれば、人間を幸福にするには、人間を自然の子にするよりほかに方法のないことを生理学的に説くものである)を説いているあいだに、私がどれほど人の役に立ったかは疑問であるが、私はそのために――十年あまりも、続けて同じ話をいろいろに説き試みたために、いつとはなしに、食養の原理を、陰陽という言葉で説いた方が、いっそう分りよいのではないかと思いついた。
そこで、それを試みてみると、前の食養の化学的な説明よりも、一般の人に、いっそう深く了解される様子もあるが、それよりも、易そのものが、より分りよくなってきた。あたかも、ある講習会で、中学の物理の先生から、「ナトリウム性の勝った物は、いったいに赤黒い、と云われるが、ナトリウムを分光器にかけて見ると、黄橙のスペクトルを示す」というような言葉を聞いた。それが動機となって、私は、分光学的易の研究というような大胆な企てを思いついた。それが病みつきで、ちょうどフランスに来たのを幸い、かつ、科学を理解する必要も生じたので、私はソルボンヌ大学の理科で、物理や化学の講義を、生理学や生物化学、生物学、コロイド化学の講義などといっしょに聞いて、それを片はしから陰陽原理に翻訳する可能性を試してみた。面白いことに、化学、物理のごとき基礎科学は申すにおよばず、生物化学のごとき複雑多岐なものの難問題も、分光学のごとき前人未踏の学の帰趨まで、一度、『易』という天眼鏡をもって望むと、たちまち氷解自証されるので、非常な興味を私は覚えた。ここに、『易』の科学的認識、科学的指導原理としての『易』の発見がある。その大要を示そう、というのが本書の目的の一つである。
『易』とは何か
いったい、『易』とは何か? 「『易』は広大悉く備わる」という言葉に、われわれは幾度も出会う。しかし真実、どの易書を開いてみても、占筮か倫理書としか見えない。しかも、それらは、占いの書としては現代人にはあまり荒唐無稽すぎるし、倫理の書としてはあまりに古色蒼然でありすぎる。古来、支那および日本で、『易』くらい、多く難解な著述をもったものはないかと思えるが、そのいずれを見ても、「広大悉く備わる」という意味を立証するものがない。しかるに、前述のごとく、私は、生化学的食養法の根本原理、ナトリウム=カリウムの対抗性を陰陽原理によって説くことを動機として、ついに知らず識らず、『易』に「広大悉く備わる」事実を説明することになってしまった。「私の考えでは、易は論理、美学、倫理の原則でもあり、政治原理でもあり、同時に、科学全般の最高無双原理でもある。したがって、すべての精神科学や応用科学の指導原理でもあり、かるがゆえに、占筮を説く天下の奇書でもある。
科学指導原理としての『易』の翻訳は第三章に、応用科学指導原理としては第四章に述べるように、『易』は、宇宙現象いっさいの、よっておこる所以を説明する無双根本原理であるから、科学をも指導し、哲学、精神科学をも説明する力をもっている。したがって、これを占いに応用することもできる。それは、一種の応用であって、易を単に占い術とみなすことは、これを単に倫理と見るのと同様に、まったく大きな誤謬である。
と同時に、「易が完全な占術書であれば、何人といえども、これを同様に利用することができねばならないはずだ」と考えるのが間違いであることは、論理学が、かりに一つの完全な科学か機械であるとしても、それを利用する人によって、ずいぶん大きな誤りをおかすことを気づかぬに等しい。易経は、易の実践倫理的注釈書にすぎない。しかし、無双原理は、単なる倫理ではない。広大悉く備わるものである。だから、書物にするということは、実際できないことなのだ。それにもかかわらず、何かの間違いで易経だけが書かれ、その易経に多くの人々が溺れ、そのうちの、きわめて少数の人々だけが、経を乗り越えて、無双原理の最高峰に登ったのである。
残念ながら、本書では、認識論や論理、社会、経済、教育などを易の原理に照らして見る時がない。が、無双原理と、その十二定理をよく理解する人は、容易に東洋独特の世界が、この方面にもあることを知ることができよう。
伏羲の発明発見としての易
もっとも、易をかくのごとく哲学、科学および、すべての応用科学や精神科学の唯一無双指導原理であるということを証明したり、 例示したりした人は、古来いまだかつてないのであるから、私の思っていることは、すべて、あるいは私一個の妄想であるかもしれないが、私は、少なくとも石塚左玄の生化学的宇宙観を機縁として、伏羲の八卦から直接にこれを感得したのであるから、どこまでも伏羲の発見である、としたい。
パリで分光学を専攻していた若い支那の理学博士、リン君は、私が伏羲の八卦から分光学の原理を演繹したというのを聞いて、伏羲の時代には、まだスペクトロスコープ〔分光計〕もなかったではないか、と反問したような例もある。しかし、現代のような分光器がなくても、分光学の原理を発見することができない、とは断言できないのである。とまれ、私には伏羲の易が現代科学をも指導する原理であるということを、私の発明だとか発見だとかは思われないのである。
※桜沢如一『無双原理・易』 第一章 無双原理『易』とは何か より
※写真は講義中の桜沢 詳細は桜沢如一資料館(日本CI協会)をご覧ください