自分の器を拡げるためにできること(その7)
2021/12/09
昨日の続きです。
昨日の記事の終わりの方に、
わたしの言う「ふりかえり」は、
いわゆる「反省」と同じではありません。
と書きました。
しかし、それ以降に書いた文章を
読みなおしてみたんですが、
言葉足らずで、
わたしがなぜ「反省」という言葉を使わずに
「ふりかえり」と書いているのか
真意が今ひとつ伝わりにくいように感じました。
そこで今日は、この
「反省」と「ふりかえり」の違いというテーマについて
寺子屋塾において行っているらくだメソッドの
学習内容にも具体的に触れながら
補足してみようとおもいます。
そもそも「反省」とはどんな意味の言葉でしょうか。
wikipediaで「反省」を調べてみると
次のように記されていました。
単純には、何らかの有用な知見を期待して、
自分がしてきた行動や
発言に関して振り返ること。
一般的には、振り返ったあと
それについて何らかの評価を下すこと、
あるいは自分の行動や言動の
良くなかった点を意識し
それを改めようと心がけること。
あるいは自己の心理状態を振り返り
意識されたものにすること。
中心的な考えである自分の過ちを
認めることと改善を誓約する意味、文化。
このように、「反省」という言葉の
純粋な意味だけを問うのであれば、
wikiの「単純には」に書かれている通りで、
「うしろ(過去)をかえりみる」ことと
言っていいでしょう。
しかし、「過去をかえりみる」という意味で
この「反省」という言葉を使おうとしても、
現実には、wikiの「一般的には」の後に
書かれているような意味あいで
受け取られてしまうことが少なくありません。
つまり、「反省」という言葉には、
「こうすべき」「こうあるべき」という
暗黙の前提があって、
その前提に照らして良し悪しの評価が
含まれてしまうというか、一般には
そう評価することが
「反省」であるということになっています。
そのため、わたしは敢えて
「反省」という言葉と区別し、
「ふりかえり」という言葉を使うように
心がけているんですが、
当塾で基本教材としているらくだメソッドにおいて、
一般的な「反省」の意味あいを含まない
「ふりかえり」という概念を
具体的に実現しているツールが〝学習記録表〟です。
記事冒頭の写真にある通り、この学習記録表には、
・やったプリントの番号
・かかった時間
・ミスの数
という事実情報のみを
1ヶ月分記入できるようになっています。
昨日の記事にも、
あれが良かった、これは良くなかったという
良し悪しのジャッジメント、
価値判断を入れてしまうと、
その良し悪しの判断の基準が
自分自身のものなのか、
まわりのものなのかが曖昧になって
事実をありのままに観察し続けるということが
むしろできなくなってしまうからです。
と書いたんですが、
この学習記録表には、評価を記入する欄がなく、
事実情報のみが書かれていきます。
たとえば、通塾コースの場合、
教室に通う頻度は週1回が原則ですから、
次の通塾日までの6日間分の教材を
原則学習者が自分で決めて持ち帰ります。
よって、1日1枚で学習している場合であれば、
6枚の教材を持ち帰ることになります。
そして、次の通塾日にはこの学習記録表を
指導者であるわたしに最初に見せながら、
今日はどのプリントを学習するかを相談し、
最終的には、それについても、
学習者が自分で決められるルールになっています。
よって、たとえ持ち帰った6枚のプリントが
1週間後に1枚もやれていなかったとしても、
指導者のわたしは、そのことを叱ったり
責めたりする必要は一切なく、
学習者が教室にやってきたときに、
この記録表を一緒に見ながら
「今日はどうする?」って聞くだけです。
つまり、この学習記録表には
プリントをやればやってあるという事実が、
やらなければやっていないという事実が
記録されていきますから、
書かれた(書かれていない)情報だけをもとに
学習者と指導者が対等な立場で
対話することが可能になるわけです。
よって、時間軸は常にいま、ここ、自分にあって、
学習者が問われているのは「過去の自分」でなく
「いまの自分」であることが実感できるし、
「こうあるべき」「こうするべき」を
前提にすることなく、
指導者からの「押しつけ」「強制」「命令」を
一切排した状態で、
最終的に学習者がどうしたいかをもとに
自分で判断することが可能になるのです。
昨日の記事にも
過去の事実は、変えられない不変のものではなく、
いまの自分の受け止め方次第で
次に活かすことができる
と書きましたが、
この学習記録表は
まさに自分の器を拡げるという意味でも
無くてはならない重要な ツールと言っていいでしょう。