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書経・商書「生きる方向軸が一つに定まっていれば吉」(「今日の名言・その7」)

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書経・商書「生きる方向軸が一つに定まっていれば吉」(「今日の名言・その7」)

書経・商書「生きる方向軸が一つに定まっていれば吉」(「今日の名言・その7」)

2022/02/21

〔原文〕

 德惟一、動罔不吉、德二三、動罔不凶。

 

〔読み下し文〕

 德(とく)惟(こ)れ一(いち)なれば、

 動(うご)きて吉(きち)ならざる罔(な)く、

 德(とく)二三(にさん)なれば、

 動(うご)きて凶(きょう)ならざる罔(な)

 し。

 

〔大意〕

 生きる方向軸が一つに定まっていれば、

 何かにつけて吉であり、

 生きる方向軸が二つ三つに分散していれば、

 何をなしても凶である。

 

 ※『書経』商書・咸有一徳編429より

 

昨年11月にスタートした

易経実践グループで学習されている

メンバーの一人から

今日、次のような質問を頂きました。

 

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ふと疑問に思ったので質問です。
河村真光『易経読本 入門と実践』に出てくる

「徳」についてです。

 

「卦徳」と「四徳」(元亨利貞)は

同じ「徳」だと思いますが、

この二つは別々のもので関係性はないでしょうか。

 

2種類の「徳」について、関係性や考え方、

捉え方についてご指南いただきたいです。

 

次のように返答をしました。

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昨日、寺子屋blogに書いた記事が、偶然にも

「徳」というテーマに関連する内容でした。

 

……いや、偶然でもないのかな?

今日こういう問いを戴くことを、わたしの潜在意識は

ちゃんと知っていたのかもしれません。笑


かなりのボリュームなので、

結局のところ何が言いたいことなのか、

焦点を掴むのが難しいかもしれませんが、

まずは、読んでみてください。

ちなみに、この論語の読み解きについては、わたしが

論語499章を1日1章ずつ読んだことのふりかえりを

こちらの記事から3回に分けて書いていますので、

もしその記事を未だ読まれてないようでしたら、

それを読まれてから

昨日の記事を読まれた方がいいかもしれません。


それと、頂いた問いを読んで、

その問いの意図というか、

結局のところ何を明らかにしたいのかが

今ひとつわたしには伝わってこなかったので、

もう少し問いを掘り下げてみて頂けますか?


書かれた問いの言葉の意味はわかるんです。

 

だから、それにわたしが答えようとすれば

たぶん答えられるとおもうんですが、

でも、それを知って、いったいどうするんですか?

ということがよくわからないんです。

 

このことは昨日書いたblog記事の中味にも

関係してきます。

 

言い換えると、ちょうど昨年12/24に書いた

こちらの記事の内容にもつながるんですが、

 

自分が何を知っていて何を知らないのか、

その境目を意識しながら問いを出していますか?

 

ということです。

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こんな経緯があって、

「今日の名言」シリーズ本日分は、

昨日書いた記事にも引用されている、

『書経』商書・咸有一徳編からの言葉と

なった次第です。

 

さて、「徳」という漢字の成り立ちは、

行人偏(=人の行い)+直+心であり、

「素直な心の人の行動」となるので、

そうしたものから生まれた

「生き方」「方向軸」「理念」などが

この漢字のもともとの意味と解するのが

適切でしょう。

 

ところが、そもそも言葉というものは、

観念の遠隔対象性(吉本隆明)ということから、

本来の意味を離れて、どんどん

ひとり歩きしてしまうものですから、

そのように拡散していったものを

後からいちいち追いかけようとしても、

キリが無いことだし、

収拾を付けるのが難しいので、

結局は、振り回されるばかりではないかと。

 

わたしが毎日1章ずつ

論語を読んでいるときにも感じたことなんですが、

前記したように、個々の人間の心の内側から

沸き起こってくる善悪の判断を指していた

〝徳〟という漢字の意味も、

社会の側から、つまり人間の外側から

行動を制限するために生じてきた規範の意味合いも

持つようになってきて、

いまでは、人間の内側なのか、外側なのか、

そのどちらを起源として生まれたものかが

区別できなくなってしまっています。

 

たとえば、ウィトゲンシュタインという人は、

そういう世の中を憂いて、

言葉で表現できることと

人間の思考の限界を明らかにすれば、

哲学的な問いの大半は解決できるんじゃないかと考えて

『論理哲学論考』という本を書きました。

 

でも、そもそも言葉とは、前記したとおり、

意味や定義が先にあって生まれた静的なものでなく、

現実には、人間が後から意味づけや

価値づけをしていく、動的なものなので、

(ウィトゲンシュタインもそのことに後から気がついて、

大転換をすることになるんですが・・・)

今から、社会全体で各々の言葉の意味を

再定義しようとしても、どだい不可能なんですね。

 

結局、社会という外側にある意味や定義

・・・実際にはそれは共同幻想であり、

フィクションであって、実在しているわけでなく、

存在しているかのように

わたしたちに見えているだけなんですが、

そういう、外側に存在している意味や定義の側に

自分を合わせて生きようとすることは、

一時的に、あるいはごく一部の限られた人には

可能であっても、

ひとつ間違うと、自分をどんどん窮地に追い込み、

自分で自分を苦しめていくことに

なりかねないんじゃないかと。

 

だから、言葉の定義や意味、存在している根拠を

社会という共同幻想の側に求めるよりは、

各自が生き方の方向軸を定め、

自分がどういう定義で

その言葉を使っているのかについて、

その時々において自覚的であろうとする姿勢で

生きて行くことの方が、現実的だとおもうんですね。

 

徳一とは、そういうことではないかと

わたしなりに解したわけで、

寺子屋塾はそんな生き方を学ぶ場でありたいと。

 

※『書経』の原文と読み下し文はこちらのサイトにあります

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