述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム(「論語499章1日1章読解」より)
2022/08/28
日曜は古典研究カテゴリーの記事を書いていて、
易経や仏典、論語などを採りあげています。
2019年の元旦から翌年5月13日まで約1年半の間、
全部で499章ある論語を1日に1章ずつ読んで
その内容をFacebookに投稿することを
日課としていたので、
その中からわたしが個人的に大事だとおもう章を
少しずつ紹介してきました。
8月は〝教えない教育〟をテーマにした
記事が多かったことから、
先週は孔子の学問に対する基本姿勢を述べた
ご紹介したんですが、
今日ご紹介する述而第七の1番(通し番号148)も
その流れに与する章と言ってよいでしょう。
この章を読んだのは2019年5月末のことでしたが、
わたしが実践している「教えない教育」から
一番対極にあり遠い存在だとおもっていた論語が、
実はそうではなく、
かなり近い所にあるんだと分かったことは、
改めて古典というもののもつ凄さや深みに
触れる体験でもありました。
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【述而・第七】148-7-1
[要旨(大意)]
晩年を迎えた孔子が自分の学問の方法(歴史や古典に対する姿勢)を述べた章。
[白文]
子曰、述而不作、信而好古、竊比於我老彭。
[訓読文]
子曰ク、述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム、竊ニ我ガ老彭ニ比ス。
[カナ付き訓読文]
子(シ)曰(イワ)ク、述(ノ)ベテ作(ツク)ラズ、信(シン)ジテ古(イニシエ)ヲ好(コノ)ム、竊(ヒソカ)ニ我(ワ)ガ老彭(ロウホウ)ニ比(ヒ)ス。
[ひらがな素読文]
しいわく、のべてつくらず、しんじていにしえをこのむ、ひそかにわがろうほうにひす。
[口語訳文]
先生(孔子)が言われた。「(わたしは古人の教えを受け継いで)述べるだけで、自ら教えを作ったことはありません。古人の教えを信じ、好んでいるのです。密かに老彭に自分を準(なぞら)えているのです。」
[井上のコメント]
今日から新しく述而第七に入りました。この篇は、孔子の学問に対する姿勢を述べた章が多いようです。
最後に登場する老彭については、老子のことだという説、周の前の殷の時代に朝廷に仕えた大夫という説、荘子に登場する長寿者で名宰相だった彭祖(ほうそ)だという説、楚辞の離騒に登場する彭咸(ほうかん)だという説など諸説あり、はっきりしたことはわからないようです。
いずれにしても、ここで孔子が言いたいことは、「自分は古くから伝わるものを祖述しているだけで、それを自分勝手に作り替えたり、新しいものを創ろうとしているわけではない」ということで、それが孔子の自分の学問についての基本姿勢であると受けとめました。
以下は、この章の内容に多少は触れてはいますが、余談です。
わたしは、老子や荘子は20代の頃からよく読みましたが、50台の半ばまでは孔子や論語にはほとんど興味がなく、むしろ遠ざけてきた側の人間です。よって、論語に書かれていることを自分の生き方の土台にするということは、今までほとんど考えたことがありませんでした。ところが、今年還暦を迎えるこの年になって論語に改めて触れてみて・・・もちろん、まだ全体の1/4ほどの分量をひとつひとつ読んで来ただけなんですが、孔子が考えていることと、自分がこれまでの人生で大事にしようとおもってきたこととの間には、それほど大きな隔たりがなかったんだと気づいてとても驚いています。たとえば、今のわたし自身も、この章で孔子が言っているように、新たな学説を打ち立てるとか、社会に対しても何らかの主義主張をするということにはまったく興味がなく、できることは、既にあるものや元々備わっているものを大事にしながら、人間本来の姿に立ち戻っていくことでしかないと考えているからです。温故知新ということわざがありますが、わたしが標榜している「教えない教育」から一番対極の遠い存在だとおもっていた論語が、そうではなく実はかなり近い所にあるんだと分かったことは、改めて古典というもののもつ凄さや深みに触れる体験でもありました。今では1章1章を読み進めていくことが日々の楽しみになってきていて、この先どんな話が登場するかワクワクしているところです。(2019.5.29)
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