闇雲に数こなせばいいってわけじゃない!(その6・最終回)
2022/10/20
昨日書いた記事の続きです。
このテーマも今日で6回目になるので、
そろそろキリをつけられるといんですが。
記事が当初に予定していた以上に長くなってしまい、
話もあちこち拡散気味なので、
今日の記事では、これまでの内容もふり返りながら、
過去に書いた類似する内容の記事もシェアするなど
ポイントを整理しながらまとめていくつもりでいます。
10/14の記事に紹介したんですが、
Facebookに著者ご本人が紹介する文章を
投稿されているのを読み、塾生はじめ、
多くの皆さんに読んでほしいとおもったことが
今回の記事を書き始めたそもそもの発端でした。
篠原さんは、20代だった頃の自分に読ませたい本を
書こうとおもってまとめたと書かれていましたが、
「意識が強すぎ、無意識に任せられない」という話は
たぶん、篠原さんに限ったことではありません。
おそらくは、現代人に多く見られる傾向であって、
おもいかえせば、寺子屋塾を始める前までの
わたし自身もそうでしたし、
いま、寺子屋塾に在籍している塾生の多くも
似たような課題を抱えているように
常日頃から感じているからです。
たとえば、1日24時間という時間は
だれにも平等に与えられているわけですから、
小学生単元のらくだメソッドであれば、
答え合わせややり直し、ふりかえりを入れても
30分そこそこで終わるようなプリント学習が
1日1枚できない理由はないんですね。
つまり、脳内に空白を確保できているかどうか、
ゆとりをもって日々を過ごしているかどうかを
自分で知るバロメーターにもなるので、
30分程度で終わるような
プリント1枚をやれるぐらいの余力を残しながら
日々を過ごすことが大事だって話を
常々教室では塾生たちにしているんですが、
それを淡々とやり続けられないというのは、
別のところで余分なエネルギーを
浪費してしまっている現れでもあるわけで、
まさに、日常が大脳思考優位に傾きすぎていて、
「意識が強すぎ、無意識に任せられない」状態に
あるんじゃないかと。
(その2)の記事には冒頭小4-6から小4-15までの
10枚のプリント全部を並べた写真も載せたんですが、
らくだメソッドには、1まいのプリントに
収録されている問題数がとても多いということが
ひとつの特徴と言ってよいでしょう。
そのため、実際にらくだメソッドで
学習していない人がそのプリントだけを見ると、
とにかくたくさんの量の問題を解くことを
大事にしていると受け止められがちなところがあり、
「闇雲に数こなせばいいってわけじゃない!」って
この記事のタイトルが生まれました。
ではなぜ、らくだメソッドには、
このようにたくさんの問題があるのでしょうか。
簡単に言うと、大脳思考の力だけで、
自力だけで頑張ってこの課題を乗り切ろうとすると、
行き詰まるようになっているんですね。笑
つまり、どうしたら誰もが確実に
算数の問題がスラスラ解けるようになるのか、
らくだメソッドを開発された平井雷太さんは、
「自然学習力」という言葉を使われているんですが、
そうした、誰にももともと備わっている
「自然学習力」が自ずと駆動するように
明確な戦略に基づいて構成されているんですが、
そのことを、昨日まで書いてきた記事では、
小学校4年生で学習する
「2けたのわり算」単元の問題を例に挙げて
具体的に説明してきたわけです。
この教材の具体的な中味についての話は、
平井雷太『らくだ学習法』にすべて書いてあり、
この本は、寺子屋塾で学んでいる塾生の皆さんには、
入会時に贈呈しているんですが、
全員が全員読めているとは限りませんし、
かなりオリジナリティの高い内容なので、
1回さらっと読んだぐらいで
簡単に理解できる話題でもないでしょうから。
寺子屋塾は、税務署には「教育、学習支援業」で
事業登録しているので、
勉強ができるようにアタマを鍛える場所だと
おもわれている方が大半でしょう。
わたしも進学塾時代には
アタマを鍛える場所だと考えていましたが
教育の仕事に長年携わるなかで、
もちろん、テストの成績を上げることとか、
目標の中学や高校に合格させることも
学習塾にとっては大事な使命のひとつなんですが、
1000人以上のたくさんの子どもたちと接するなかで
それよりもっと大事なことがあるとに気づかされ、
日本人の生活風土に合った教育、学習とは何かを
探究し、学習という営み自体を日常化することが、
わたし自身のライフワークとしても見えてきました。
そんななかで、江戸時代に民間人によって
自発的に開設された〝寺子屋〟という
学びの場のあり方が、
こんにちの学校教育とは似て非なるスタイルを持ち、
これからの日本人の学びを考える上での
重要なロールモデルになり得ることが見えてきて、
さらに、日本の伝統的な習いごとの茶道や華道、
剣道や柔道、合気道など武道の世界を知るにつけ、
ほんとうの学力を身につけたいのであれば、
アタマを鍛えるというよりは、
エネルギー消費を最小限度に抑えられるような
アタマの上手な使い方を身につけ、
身体感覚を涵養する大事さに気づかされたわけです。
そんなことを寺子屋塾ホームページの概要説明には、
〝プリント道〟という言葉で表現してみました。
では、この現状にどうアプローチするかについて
篠原さんは、
「意識が変に身体や思考の操縦権を握らないよう、
視線をずらす、そらす」と書かれていたんですが、
それをらくだメソッドのプリント学習に
置き換えてみるなら、
身体は「いま、ここ」にしか存在できないのに対し
意識はすぐ「過去や未来」に飛んでしまうので、
「合格・不合格という目的にとらわれずに
たんたんとやる練習を日々すればいい」わけです。
プリントになかなか集中できないとか、
プリントをやっている途中で寝てしまったとか、
塾生からときどき聞くんですが、
示されている手順に従って、その通りに
無意識による身体の自然な動きにまかせて、
ただ問題を解いて行けばいいんですが、
大脳思考優位な人はなかなかそれができない。
問題を解いている途中で、
「時間内でやりたい」「合格したい」
「できなかったらどうしよう!」
「間違えたらどうしよう!」・・・というように
アタマの思考に意識がよそ見をしてしまっていて、
余分な思考でエネルギーを浪費しているんですね。
どんなにがんばったところで、結局のところ、
「できることしかできない」し、
結果をコントロールすることなどできないのに、
やっている先から結果を求めてしまっているというか
結果に向かう途中で道草を食って
わざわざ独り相撲をとっているというか・・・
結局、結果を結果のまま受け入れる覚悟が足りない
・・・まあ「覚悟」なんて言葉はちょっと大げさで、
あまり使いたくないんですが、
人間は目の前の事実と自分の認識をすぐごっちゃにして
勝手なおもいこみや幻想をつくりあげてしまい、
そういう思考回路が癖になって染みついているので、
それを切り離す鍛錬っていうのは、
日常生活のなかで意識して繰り返してやっていないと
なかなか身につかないんですね。
この、意識を無意識の身体の動きに任せる
というテーマについては、すこし前に
ピアノの演奏を素材に次の記事で書いたことがあり、
そこではベンジャミン・リベットの実験の話や
モト陸上選手の為末大さんの動画なども
紹介しているので、未読の方はぜひご覧ください。
あと、上達するということについて、
「情報の獲得」「能力アップ」という風に、
学習することをたし算感覚のイメージで捉える人は
少なくないようにおもうんですが、たとえば、
ハードディスクにずっとデータを入れ続けるだけだと
いつかは満タンになって溢れかえって
オーバーヒートを起こしてしまいますよね。
だから、何かを新しく身につけようとするときは、
同時に要らないものを捨てていくことが必要で、
たし算感覚以上にひき算感覚が大事ということも
案外見逃されているように感じていて、
このことはつぶやき考現学No.98にも書きました。
・新しいことを学ぶ心得について
この話はアンラーンというテーマにもつながるので
次の記事に関連書籍の紹介も兼ねて書きましたので、
ご覧になってみてください。
・・・ということで、まだまだ書き漏らしたことが
いろいろあるようにもおもいますが、
たとえば、身についてしまったものを
具体的にどう捨てていくかということや
無意識の身体の動きに委ねるという話は
言語化することがとっても難しく、
簡単には語り尽くせない大きなテーマで、
たぶんこれからも繰り返し
書いていくことになるでしょうし、今回の
「闇雲に数こなせばいいってわけじゃない!」
ってテーマの記事については、
一応これにて終了とさせてください。<(_ _)>